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日比の往来史と在比日本人

情報基準日:2026-08-26 / 分野:OFW・移民・送金・在日比人

日本とフィリピンの人の往来は、400年以上のあいだに「三度」大きな波を作った。 第一波=17世紀の日本町(朱印船とキリシタン追放)、第二波=明治〜戦前の労働移民(ベンゲット道路とダバオ)、第三波=1980年代以降の「逆流」(フィリピン人が日本へ)。 三つの波はいずれも「戦争」「規制」「制度変更」によって人為的に断ち切られている。自然に終わった波は一つもない。 2026年は国交正常化70周年。5月にマルコス大統領が国賓訪日し、両国関係はフィリピンにとって初の「包括的・戦略的パートナーシップ」に格上げされた。


0. 最初に押さえる8点

  1. 在比日本人(在留邦人)は約1万2,600人、在日フィリピン人は約35.7万人。桁が28倍違う。日比の「往来」は現在、圧倒的にフィリピン→日本の一方向である。
  2. 在留邦人は増えていない。2018年の約1万6,900人から2024年には1万2,648人へと、6年で約25%減っている(外務省)。「フィリピン移住ブーム」の実感と統計は一致しない。
  3. 戦前のピーク(1930年代後半)で在比日本人は約2万4,000人。現在より当時のほうが多かった。
  4. ダバオの「日本人社会」は約2万人規模で、外南洋(東南アジア)最大だった。これが戦争で丸ごと消滅した。
  5. 戦後の最大の未解決問題がフィリピン残留日本人二世。2026年時点でなお無国籍状態の人が推定約600人、平均年齢83歳。
  6. 1980〜2004年の「興行ビザ」時代がフィリピン人の対日移住の入口を作った。2005年の規制で入国者は2年で82,741人→8,607人へ激減した。
  7. 現在の主流ルートはEPA(2009年〜)→技能実習→特定技能(2019年〜)→育成就労(2027年4月〜)。すべて労働に紐づいた制度である。
  8. 「残留日本人二世」と「JFC(Japanese-Filipino Children)」は全く別の問題である。前者は戦前移民の子(1930〜40年代生まれ)、後者は1980年代以降の来日フィリピン人女性と日本人男性の子。混同すると議論が噛み合わない。

1. 年表 ── 押さえるべき節目

出来事
1590年代 マニラ郊外ディラオ(Dilao)に日本人居住区が形成されたとみられる
1601 フランシスコ会がディラオ在住日本人のための教会建立許可を取得
1606–07 ディラオの日本人町が焼き払われる(その後再建)
1614 徳川家康のキリシタン国外追放令。高山右近(Justo Takayama Ukon)らが長崎から追放され、12月マニラ着
1615 高山右近、マニラ到着から約40日で客死(2月3日、享年63)
1630年代 サンミゲル(San Miguel)の日本人町が最盛期に約3,000人とされる
1636 海外渡航禁止令。日本町は人的補充を絶たれ消滅へ
1762 ディラオの日本人町がパコに移転、まもなく消滅
1901 ベンゲット道路(現ケノン・ロード)着工
1903 ケノン少佐が工事責任者に。日本人・中国人労働者を超法規的に受け入れる。同年、太田恭三郎がダバオの土地開発許可を取得
1905 ベンゲット道路完成(全長約41km)。労働者の多くは帰国、一部がダバオへ
1907 太田恭三郎が「太田興業株式会社」をダバオに設立(5月)
1914 古川拓殖株式会社設立(伊藤商店=現・伊藤忠/丸紅の支援)。太田興業と並ぶ二大アバカ企業に
1918 ダバオの日本人経営企業が60社に
1919 排日的な新土地法。日本人殺傷事件も頻発
1940頃 ダバオ在留邦人 約2万人(外南洋最大の日系社会)。日系小学校13校。全比では約2万4,000人
1941–45 日本軍侵攻・占領
1945/2–3 マニラ市街戦。市民約10万人が犠牲
1946 フィリピン独立(7月4日)。在留邦人は米軍により強制送還、比人妻子が現地に取り残される
1953/7 キリノ大統領の恩赦で日本人BC級戦犯105名を釈放・送還
1956/7/23 日比賠償協定発効=国交正常化。賠償5.5億ドル+経済協力2.5億ドル
1968 マニラ日本人学校 開校
1976 賠償支払い完了(7月22日、日本の戦後賠償全体の最後)
1977 マニラ・パコにプラザ・ディラオ(日比友好公園)開園。高槻市寄贈の高山右近像を除幕(11月17日)
1979 高槻市とマニラ市が姉妹都市提携(1月25日)
1980年代 興行ビザによるエンターテイナー来日が本格化(いわゆる「ジャパゆきさん」の時代)
1990 日本の入管法改正。日系2世・3世に就労制限のない在留資格 → フィリピンで日系人会活動が本格化
1992 フィリピン日系人会連合会発足
1993–94 JFC弁護団(93年4月)、JFCネットワーク(94年5月)設立
1998 マニラにマリガヤハウス開設(1月17日)
2004 フィリピンからの興行入国が82,741人でピーク。12月、日本政府「人身取引対策行動計画」
2005–06 興行ビザ基準の厳格化。2006年の入国は8,607人まで激減
2008 日比EPA発効(12月11日)。比からの看護師・介護福祉士候補者受入は2009年度開始
2017 高山右近、大阪城ホールで列福(2月7日、約1万人参列)
2019 在留資格「特定技能」開始
2025 戦後80年。石破首相が残留日系人と懇談(4/29)。残留2世の訪日招聘事業が始動(8/6に第1号)。日比RAA発効(9/11)
2026 国交正常化70周年。1月に日比ACSA署名、5月にマルコス大統領が国賓訪日、関係を「包括的・戦略的パートナーシップ」へ格上げ
2027 育成就労制度が施行予定(4月1日)

2. 第一波 ── 17世紀の日本町と高山右近

日本町は「二つ」あり、宗派で分かれていた

ここが最初に間違えられる点である。マニラの日本人町は一つではない。

名称 位置 宗派系統 備考
ディラオ(Dilao) イントラムロス南東、現パコ地区付近 フランシスコ会 1601年に教会建立許可。現在「プラザ・ディラオ(日比友好公園)」
サンミゲル(San Miguel) マニラ市外 イエズス会 内藤如安(ジョアン内藤)が中心。最盛期3,000人とも

「プラザ・ディラオに右近像があるから、右近はディラオの日本人町に住んでいた」は誤り。 ディラオの日本人町は右近来比の7年前(1606–07年)に一度焼き払われており、右近との直接の関係は確認されていない。像は1970年代の日比友好事業として後から置かれたものである。

高山右近のマニラ客死(1615年)

プラザ・ディラオ(日比友好公園)の成り立ち


3. 第二波 ── ベンゲット道路とダバオ

ベンゲット道路(1903年)── 「移民」ではなく「出稼ぎ工事」

米国はマニラの酷暑を避ける避暑首都としてバギオを開発するため、1901年にベンゲット道路(現ケノン・ロード)を着工した。難工事で進捗せず、1903年に工事責任者となったケノン少佐が、フィリピン人・イゴロット・欧米人に加え、当時は排斥対象だった中国人と日本人の労働者を超法規的に受け入れた

時期 日本人労働者数
1903年6月 45人(確認できる最初)
1903年10月 116人(日本での募集組が到着)
1903年11月以降 常時500人超
1904年7月 855人(ピーク)
1904年8月 812人

1905年2月の成田五郎領事の復命書でも「1,000人を超えることはなかった」と報告されている(研究者・早瀬らの整理)。

ダバオ ── アバカ農園と「ダバオ国」

項目 内容
中心人物 太田恭三郎(1876–1917) 兵庫県出身。マニラで雑貨商を営み、1903年にダバオの土地開発許可を取得
会社設立 1907年5月、太田興業株式会社。フィリピン法に基づく法人なら外国人でも土地を持てる点を突いた
沖縄人脈 ベンゲット道路で働いた沖縄県人のリーダー・大城孝蔵が共同創設者。1910年代に大城の呼び寄せで沖縄移民が急増
二大企業 1914年に古川拓殖株式会社(伊藤商店=現・伊藤忠/丸紅の支援)設立。太田興業と二大アバカ企業に
主産品 アバカ(マニラ麻)。船舶用ロープ原料として世界需要が旺盛で、ダバオは世界最大の産地に
規模 1918年に日本人経営企業60社。1930年代後半〜1940年で在留日本人 約1万8,000〜2万人。日系小学校13校
ミンタル(Mintal)周辺に「リトル東京」。病院・学校・日本人墓地・旅館・洋品店
摩擦 1919年に排日的な新土地法(株式の6割以上を比人か米人が保有しないと払い下げない)。日本人殺傷事件も頻発

「ダバオ国」は当時の日本のメディアが使った通称であり、独立国でも自治領でもない。 フィリピン内の一都市に日本人経済圏が突出して形成された状態を指す言葉である。


4. 戦争 ── 波を断ち切ったもの

マニラ市街戦(1945年2月3日〜3月3日)

区分 死者
フィリピン人市民 10万人以上(負傷等を含む被害者総数を約25万人とする集計もある)
日本軍 約1万6,000人(うちマニラ海軍防衛隊が1万2,500人以上
米軍 戦死1,010人・戦傷5,565人

(2026-08-25 相互照合で修正)旧稿の「日本軍 約1万2,000人」「米軍 戦死1,020人・負傷約5,600人」は、分野内資料「通史」§4の数値と食い違っていた。「約1万2,000人」は海軍防衛隊の内数を全体と取り違えたものである。出典:Battle of Manila (1945) の標準的な損害集計(米軍戦死1,010/戦傷5,565、日本側約16,000〔うちマニラ海軍防衛隊12,500以上〕、民間人10万人以上)。民間人死者は日本軍による意図的な殺害と、米軍砲撃・空爆の双方に由来し、内訳の確定値は存在しない(推計値として扱うこと)。

引き揚げと、残された家族

キリノ大統領の恩赦(1953年)


5. フィリピン残留日本人二世 ── いまなお進行中の問題

数字(2025年3月末時点、PNLSC/外務省ベース)

区分 人数
確認された残留2世 3,815人
うち日本国籍を回復 1,649人
死亡・行方不明により未取得 2,032人
存命の未取得者 134人
身元未判明とされる人 900人以上
事実上の無国籍と推定される人 約600人
平均年齢 約83歳

なぜ無国籍になったか(3条件の重なり)

  1. 日本人の父が戦死・送還され、父子関係を示す書類が失われた(または母が処分した)。
  2. 当時、日本もフィリピンも父系血統主義だった。父の国籍を証明できなければ日本人でもフィリピン人でもない。
  3. 戦後の反日感情下で「日本人の子」であることを名乗れず、出生登録自体がなされなかった例が多い。

手続きと2025〜2026年の動き

フィリピン日系人会連合会


6. 第三波 ── 「逆流」の時代(1980年代〜)

興行ビザと「ジャパゆきさん」

「ジャパゆきさん」は当時の日本のメディア用語で、現在は差別的含意を持つ語とされる。資料で使う場合は歴史的文脈を明示すること。

フィリピンからの「興行」新規入国者
2004 82,741人(過去最高)
2005 47,765人
2006 8,607人

国際結婚

指標 数値
1965〜2024年の累計「夫日本人・妻フィリピン人」 181,561組(中国273,816、韓国・朝鮮227,634に次ぐ3位)
年間最多を記録した年 2006年のみフィリピン人妻が中国人妻を僅差で上回った
「夫日本人・妻外国人」全体 2000年 28,326件 → 2023年 11,779件(約41.5%の水準へ)
うちフィリピン人妻 2000年比 約36.5%まで減少

国際結婚も「減っている」。1980〜90年代のイメージで現在を語ると外す。

JFC(Japanese-Filipino Children)


7. 現在の制度 ── フィリピン人はどう日本へ来るか

在日フィリピン人の全体像(2025年末、出入国在留管理庁)

指標 数値
在留外国人総数 412万5,395人(初の400万人超、人口比3.36%)
フィリピン 356,579人(前年比+4.4%、国籍別4位、全体の8.8%)
上位 中国930,428/ベトナム681,100/韓国407,341/フィリピン/ネパール300,992/インドネシア266,069

フィリピンの伸び(+4.4%)は、ネパール(+29.2%)やインドネシア(+33.2%)に比べて穏やか「増えているが、新興送り出し国に押されて順位を落としつつある」というのが正確な理解である。

日比EPA(2008年12月11日発効)

項目 内容
受入開始 2009年度(平成21年度)。インドネシアは2008年度、ベトナムは2014年度
累計来日者 3か国計8,809名のうちフィリピンは3,304名(2008〜2025年度、JICWELS)
看護師候補の要件 比の看護師資格+実務経験3年
介護福祉士候補の要件 比の看護学校(4年制)卒、または4年制大学卒+比政府の介護士認定
日本語 訪日後研修6か月(比・尼)。N4またはN3取得者は訪日前研修が免除
就学コース 比は平成23年度以降、介護の就学コース実績なし
位置づけ 「労働力不足対策ではなく経済連携強化のための特例」と定義されている。建前だが制度設計を規定している

特定技能(2019年〜)と育成就労(2027年4月〜)

指標 数値(2025年12月末)
特定技能 在留者総数 390,296人(前年比約+37%、うち1号382,341人)
ベトナム 164,352人(42.1%)
フィリピン 約3.6万人(約9.2%、4位)
最多分野 飲食料品製造業 95,644人(24.5%)、次いで介護

8. 在比日本人の現在

人数と分布

指標 数値
在留邦人(2024年10月1日) 1万2,648人(前年比 −2.6%、国・地域別17位、アジア9位)
参考:2018年 全比 約1万6,894人/マニラ首都圏 8,313人
戦前ピーク(1930年代後半) 約2万4,000人
2025年10月1日時点 海外在留邦人総数は129万8,170人。フィリピン単独値は未確認

在留邦人は減少トレンドにある。要因としてコロナ期の帰国、駐在員の削減、退職移住者の高齢化などが指摘されるが、公式な分析は未確認。

コミュニティ機関

機関 概要
マニラ日本人学校(MJS) 1968年開校。2001年4月にBGC(ボニファシオ・グローバル・シティ)へ移転、敷地約4ha。小中一貫。児童生徒数は2016年395名 → 2023年約310名(コロナ前は約460名)
セブ日本人補習授業校 日本人学校ではなく補習校。毎週土曜3時間、年間約150時間
マニラ日本人会(JAMI) 1957年に「マニラ日本人会倶楽部」として設立、1976年に現名称。日本人学校と日本人会診療所を運営。会員 約2,600世帯(2017年)
フィリピン日本商工会議所(JCCIPI) 1973年11月設立。会員686社(2020年9月)

「フィリピンの日本人学校」は事実上マニラの1校のみ。 家族帯同でセブやダバオに住む場合、教育の選択肢はインターナショナルスクールか補習校+通信教育になる。赴任先を検討する際の実務上の分岐点。

リタイアメント(SRRV)

語学留学


9. 相互往来の「いま」の数字

方向 数値
フィリピン人 → 日本(2025年) 885,100人(前年比+8.1%、過去最高、JNTO)。旅行消費額 1,636億円(過去最高、観光庁)
日本人 → フィリピン(2025年上半期) 256,776人3位、フィリピン観光省 DOT/BI集計ベース)
日本人 → フィリピン(2025年通年) 502,546人(DOT。2024年は444,258人)
フィリピン訪問者総数(2025年通年) 6,484,060人(前年比 +0.76%。2024年は6,435,438人/DOT)
参考:同(2025年上半期) 約300万人(2026年上半期316万人が前年同期比+5.41%であることからの逆算。DOT)
2025年通年の上位市場 韓国 1,346,301人/米国 1,323,142人/日本 502,546人(DOT)

(2026-08-25 相互照合で修正)旧稿の「フィリピン訪問者総数(2025年上半期)7,840,728人」は誤り。 2025年通年の訪問者総数が6,484,060人であり、上半期がそれを上回ることはあり得ない。分野内資料「世界遺産と観光資源」§1および「祭り・年中行事」§12-1の6,484,060人(DOT、2026年1月発表)を正とした。 旧稿が2025年上半期の1・2位として挙げた「米国 753,544人/韓国 745,623人」も、同じブロックの総数が誤っていたため確度が低い。通年の確定値(韓国1,346,301/米国1,323,142)を併記する。なお「世界遺産と観光資源」§1は、2026年上半期に米国が581,565人で初めて首位に立ち韓国を逆転したとする(DOT/BusinessMirror, 2026年7月)。 2026年3月からDOTが集計基準を「国籍」から「居住地」へ変更しているため、2025年以前の数値と2026年の数値を直接比較しないこと。

往来の非対称がここにも出る。訪日フィリピン人は年間88.5万人、訪比日本人は年間約50万人(2025年:502,546人)。フィリピン観光市場では韓国・米国が日本の2.6倍規模であり、日本は第3位にとどまる。


10. 日本語教育 ── 「往来の下地」を作る層

区分 数値(国際交流基金)
高等教育機関 59機関・17,948人(2024年度調査)。2021年調査は44機関・9,181人 → 約2倍に急増
公立高校 教師131名(2024年2月末)、学習者6,914名(2023年、マニラ日本文化センター調査)
学校教育以外 就労機会の拡大が主目的。民間機関はTESDA(技術教育技能開発庁)のカリキュラム認定が必要

11. 2026年 ── 国交正常化70周年

事項 内容
起点 1956年7月23日、サンフランシスコ平和条約および日比賠償協定の発効 → 国交正常化
2026年の呼称 「日本・フィリピン友好年」
テーマ 「未来を共に織りなす:平和、繁栄、可能性(Weaving the Future Together: Peace, Prosperity, Possibilities)」
国賓訪日 2026年5月26〜29日、マルコス大統領夫妻。国会演説も実施
首脳会談 5月28日、高市早苗首相と会談両国関係をフィリピンにとって初の「包括的・戦略的パートナーシップ」に格上げ
共同声明 海上法執行機関間の合同訓練、巡視船供与を含む比沿岸警備隊(PCG)の能力強化支援、ミンダナオ和平(2026年9月の史上初のバンサモロ議会選挙)への支持
外相往来 茂木外相は70周年の年明け最初の出張先としてフィリピンを訪問。7月にもマルコス大統領を表敬

「部隊の往来」という新しい人の流れ


12. 知らないと間違える点まとめ

よくある誤解 正しくは
プラザ・ディラオは高山右近が住んだ日本人町の跡 ディラオの日本人町は右近来比の7年前に焼失。像は1970年代の友好事業で設置された
「ダバオ国」という独立国/自治領があった 当時の日本メディアの通称。制度的実体はない
ベンゲット道路が日系社会の母体 労働者はピークでも855人、1,000人を超えず。多くは帰国した
残留日本人二世=JFC 全くの別問題。世代も原因も根拠制度も異なる
残留2世の救済法がある 根拠法は存在しない。個別の就籍審判で対応しており、これが遅延の主因
在比日本人は増えている 減少中。2018年 約1万6,900人 → 2024年 1万2,648人
フィリピンパブ=いまも主要な来日ルート 2005〜06年の規制で消滅。現在の主流はEPA・特定技能
特定技能なら日本側手続きだけで済む 比側のDMW/MWO認証が必須。工程が一段重い
フィリピンには日本人学校が各地にある 事実上マニラの1校のみ。セブは補習校
SRRVの条件はネット情報で確認できる 情報が錯綜。PRA公式での確認が必須
日比RAAは2026年発効 2025年9月11日に発効済み

13. 資料を書くときの視点


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