フィリピン 年表・通史クロノロジー
0. 凡例と使い方
この資料は「読む通史」ではなく「引くための年表」である。日付は可能な限り年月日まで特定し、確定できないものは「〜頃」「年のみ」と明示した。
| 記号 | 意味 |
|---|---|
| 重要項目 | |
| 特に重要(この一件を知らないと文脈が崩れる) | |
| 注 | 知らないと間違える点/資料により年代・数値が割れる点 |
| 未確認 | 一次資料・原典に当たれず裏が取れなかった項目 |
出典の扱いについて - 数値には原則として「年+出典名」を付した。 - 推計値(研究者推計・NGO集計)と確定値(政府統計・裁判所判断)は区別して記載した。 - 政府統計と業界団体・当事者の主張が食い違う場合は両論を並べた。 - 本稿は Wikipedia を出典として用いない(2026-08-26 の出典衛生工程で、初稿以来残っていた Wikipedia 出典を全件除去した)。主要な参照は、法令原文(LawPhil・Chan Robles・最高裁E-Library)/政府の公式発表(PCO・PNA・PIA・官報・NDRRMC・PHIVOLCS)/国際機関・外国政府の公式記録(WHO・USGS・米国務省歴史部・米陸軍軍史センター)/査読論文・一次史料集(Blair & Robertson 等)/比国主要紙(Inquirer, Philstar, Rappler, BusinessWorld, GMA, Manila Times, PNA)である。各項目の末尾に略記した。 - 注 一次資料に到達できなかった項目は、数値・記述はそのまま残したうえで出典表記を「注 一次資料未到達(2026-08-26時点)」とした。到達できない理由の多くは officialgazette.gov.ph・pna.gov.ph・doh.gov.ph・ndrrmc.gov.ph の CAPTCHA/Cloudflare 遮断である(有料記事の壁は回避していない)。 - DENR/EMB/NSWMC/DOTr の各公式サイトは本稿の調査方針上、参照していない。環境・運輸行政の一次資料が必要な場合は別途当たること。
1. 先史時代(〜900年頃)
注 この節の年代はほぼ全てが推定であり、新発見で頻繁に更新される。「フィリピン最古の人類」は 2019 年のカラオ人(Homo luzonensis)記載以降、大きく塗り替わった領域である。
| 年代 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 約709,000年前頃 | ルソン島カガヤン渓谷で、屠殺痕のあるサイ骨と石器(人類活動の痕跡) | 最古級の人類活動痕跡。ホモ属の種は未特定 |
| 約400,000年前頃 | ホモ・エレクトスが到達したとする説 | 諸説あり |
| 約250,000年前頃 | 人類の居住が始まったとされる | 推定 |
| 約55,000年前頃 | 最初のホモ・サピエンス | 推定 |
| 約50,000年前頃 | パラワン島タボン洞窟群で石器製作 | タボン洞窟群は「フィリピン文明のゆりかご」と呼ばれる |
| 約40,000年前頃 | ネグリト系集団の定着開始 | |
| 約35,000年前頃 | ピナトゥボ火山の大噴火がカパンパンガン地域の地形を形成 | |
| 約20,000年前頃 | 「タボン人(Tabon Man)」の年代 | 注 年代は16,500年前〜47,000年前まで資料により幅がある |
| 前8000年頃 | バタンガス・ブラカン・リサール・パラワンの洞窟居住 | |
| 前4500〜前300年頃 | 台湾からのオーストロネシア語族の複数波の移住 | フィリピン人の主要な祖先形成期。ただし「出台湾説」自体に近年異論もある 注 |
| 前4000年頃 | 稲作・家畜化の最古の痕跡 | |
| 前3000年頃 | アンゴノ・ペトログリフ(岩面刻画)の推定年代 | 国内最古の美術遺構とされる |
| 前2000年頃 | イゴロット系集団による石積み構造物 | |
| 前1000年頃 | 後期新石器時代。最初期の採鉱 | |
| 前890〜前710年頃 | マヌンガル壺(Manunggul Jar)=サーフィン文化圏との接触を示す | パラワン出土。1000ペソ紙幣にも描かれた国宝級遺物 |
| 前600年頃 | パラワン・コルディリェラ・バタネスで金細工 | |
| 前300〜前200年頃 | カラバオ(水牛)の家畜化 | |
| 200年頃 | マイトゥム人面土器(二次葬用) | 南コタバト州出土 |
| 3世紀以降 | 東南アジア・東アジア諸国との接触、バランガイ(沿岸の小首長国)成立 | 「バランガイ」は現在も最小行政単位の名称として残る |
| 700年頃 | カウィ文字(Kawi)の成立 |
2. 古代・交易国家とイスラーム化(900〜1520年)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 900年4月21日(ユリウス暦) | ラグナ銅板碑文(Laguna Copperplate Inscription, LCI) の日付。サカ暦822年ヴァイシャーカ月・下弦第4日・月曜 | フィリピン最古の文書。=この日をもって「先史時代の終わり」とするのが通例。1987年ラグナ州ルンバンのルンバン川河口で発見、オランダ人人類学者アントーン・ポストマ(Antoon Postma)が解読・公表。出典:Antoon Postma, "The Laguna Copper-Plate Inscription: Text and Commentary," Philippine Studies vol.40 no.2 (1992), pp.183–203(査読誌。Ateneo de Manila 大学 Archīum Ateneo で全文公開)/分野内資料「通史」§1(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を原論文に差し替え。注初訳の年を「1991年」としていたが、公刊された原論文は1992年であるため「1991年に解読、1992年に論文として公表」と整理した) |
| 971〜982年 | 中国との直接接触の最古とされる年代 | 諸説あり |
| 1000年頃 | 仏教・ヒンドゥー教の影響が広がる/チャンパ人がスールーに交易拠点/イヴァタン人がバタネスに山城「イジャン(Idjang)」を築く | |
| 1001年 | 『宋史』にブトゥアン王国(Rajahnate of Butuan)の朝貢使節の記録 | 文献に現れる最古の比国政体のひとつ |
| 1155年頃 | 日本との「呂宋壺(ルソンつくり)」交易が栄える | 日比交易の古層 |
| 1174〜1175年 | ビサヤ人の襲撃団が台湾(フォルモサ)を襲う | |
| 1180年頃 | インド文化圏の首長国ルパー・スグ(Lupah Sug=スールー)が栄える | |
| 1200年頃 | イバロイ人によるカバヤンのミイラ製作が始まる | ベンゲット州の「火のミイラ」 |
| 1240年 | トゥアン・マシャイカがスールーにイスラームを伝える | イスラーム伝来の起点とされる |
| 13世紀 | ミンドロの「麻逸(Ma-i)」が繁栄。趙汝适『諸蕃志』が交易を記述 | |
| 1300年頃 | バイバイン(Baybayin)文字の採用 | |
| 1369年 | スールーがマジャパヒトとその属領ブルネイを攻撃 | |
| 1380年 | シェイク・カリムル・マクドゥムがホロに到着しモスクを建立 | 2025年7月9日に「Sheikh Karim'ul Makdum Day」が国民の祝日として制定された |
| 1390年 | バギンダ・アリがブアンサに到達しラジャとなる | |
| 1400年頃 | スマトラからのスリ・ルマイ到来を機にセブが成立/ナマヤンがラカンタッカンを君主に | |
| 1405年 | 永楽帝が中国人使節コ・チャラオをルソンに派遣 | |
| 1411年12月11日 | 永楽帝がパンガシナンの使節らのため宴を催す | |
| 1457年 | スールー王国(Sultanate of Sulu)成立(サイイド・アブバカール・アビリン) | 1704年にブルネイ王からの北ボルネオ割譲を受け、後年のサバ領有権主張の根拠となる |
| 1458〜1459年 | ルソン人(Lucoes)がビルマ=シャム戦争に傭兵を送る | |
| 1500年頃 | マニラのラジャ・サラリラがブルネイのスルタン・ボルキアの娘と婚姻/ピナトゥボ山「ブアグ噴火期」の噴火 |
3. スペイン期(1521〜1898)
3.1 到達と征服(16世紀)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1521年3月16日 | フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan/Fernão de Magalhães)艦隊がフィリピン諸島を「発見」。ホモンホン島(サマール沖)に上陸 | 注上陸日は資料により3月16日/17日で割れる。一次史料であるアントニオ・ピガフェッタ『最初の世界周航』(Blair & Robertson, The Philippine Islands, 1493–1898, Vol. XXXIII, pp.103–137 所収の Robertson 訳)は、3月16日(土)夜明けに「Zamal(=サマール)」という高い陸地を視認し、翌3月17日(日)に「その右手にある無人の島 Humunu(=ホモンホン)」に上陸して病人用の天幕2張を張った、と明記する。実務上は「1521年3月16日=諸島の視認、3月17日=ホモンホン上陸」と書くのが一次史料に忠実(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典をピガフェッタ原文に差し替え) |
| 1521年3月28日 | リマサワ(Limasawa)到達 | |
| 1521年3月29日 | マゼランとラジャ・クランボの血盟(サンドゥーゴ) | |
| 1521年3月31日 | フィリピン初のミサ(復活祭のミサ) | 注場所が「リマサワ(南レイテ)」か「マサオ/ブトゥアン(アグサン・デル・ノルテ)」かで長年係争。共和国法2733号(1960年6月19日)でリマサワを国定聖地と規定。NHI が1980・1995・2008年に、NHCP のモハレス委員会が2020年に再検証し、いずれもリマサワ説を維持。NHCP は2020年8月19日に改めてリマサワを公式見解として再確認 |
| 1521年4月7日 | マゼランがセブ上陸、ラジャ・フマボンと会見 | |
| 1521年4月14日 | セブでのミサ、約500人が受洗 | サント・ニーニョ像がフマボン妃に贈られる |
| 1521年4月27日 | マクタンの戦い。ラプラプ(Lapulapu)がマゼランを討つ | フィリピン側の「最初の抵抗」の象徴。2021年に500周年(Quincentennial)を国家行事として実施 |
| 1525/1526/1527年 | ロアイサ、カボット、サアベドラの各遠征(いずれも失敗) | |
| 1543年(2月2日とも 注) | ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがサマール・レイテを「Las Islas Filipinas」と命名 | 国名の由来(皇太子フェリペ=後のフェリペ2世にちなむ)。当初はサマール・レイテのみを指した。注「2月2日」という日付は比国内資料には流通するが、原史料での裏付けが取れない。また命名者をベルナルド・デ・ラ・トーレ(Bernardo de la Torre)とする説もある(出典:注 一次資料未到達(2026-08-26時点)。ビリャロボス遠征の一次記録=Escalante/Santisteban の報告に到達できていない。年(1543年)のみで書き、日付は断定しないこと) |
| 1565年2月13日 | レガスピ艦隊がセブ沖に投錨。ただし現地の抵抗により上陸できず(=この日は「到着」でも「征服開始」でもない) | 注(2026-08-26 再検証で再修正。初稿の「セブ到着」も、同日の第1次修正で書いた「諸島(サマール)到達」もいずれも誤り。)一次史料集 Blair & Robertson, The Philippine Islands, 1493–1803, Vol. II(1521–1569)(Project Gutenberg #13280。レガスピ自身の "Relation of the voyage to the Philippines"(Cubú, 1565)等の同時代文書を収録)は、1565年1月22日ラドロネス(グアム)着 → "they reach Cebú on February 13, and thence make various journeys among the islands"(=2月13日にセブに到達し、そこから諸島各地を巡った)と記す。サマール到達・ダトゥ・ウラオとの血盟は2月22日、3月16日ボホールでダトゥ・シカトゥナと血盟(サンドゥーゴ)、セブ上陸・ラジャ・トゥパス勢の制圧は4月27日(注同史料集の編者要約は「It is captured (April 28) by an armed party」=4月28日とし、1日ずれる。どちらか一方だけを書かないこと)。出典:Blair & Robertson Vol. II/分野内資料「スペイン植民地期」§1年表(2026-08-25 検証で同じ修正済み)と統一(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を一次史料集に差し替え) |
| 1565年2月22日 | レガスピ隊がサマール島に到達し、首長ダトゥ・ウラオ(Datu Urrao)と血盟。続いてリマサワでダトゥ・バンカウの歓待を受けボホールへ | (2026-08-26 再検証で追加。出典:注 一次資料未到達(2026-08-26時点)=Blair & Robertson Vol. II の編者要約では2月22日のサマール到達に相当する記述を特定できなかった。分野内資料「スペイン植民地期」§1と整合するが、原史料での確認は未了) |
| 1565年4月27日 | レガスピがセブに上陸、ラジャ・トゥパス勢を破る | 分野内資料「通史」§2.2と一致 |
| 1565年5月8日 | 最初の恒久的スペイン人植民市(セブ)建設 | 植民地支配の実質的な起点 |
| 1565年6月4日 | レガスピとラジャ・トゥパスがセブ条約を締結 | |
| 1565年 | アウグスティノ会到着。フィリピンはヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王領の一部として統治 | 1821年のメキシコ独立まで、マドリードではなくメキシコ市経由の統治だった点は誤解が多い |
| 1565年頃〜1815年 | マニラ=アカプルコ・ガレオン貿易 | 注開始年は1565年(ウルダネタの復路航路発見)/1571年/1573年(マニラ発の初便)と資料により割れる。終焉は1815年で概ね一致 |
| 1569年8月6日 | フェリペ2世がセブを最初の州(provincia)として設置 | |
| 1571年6月24日 | レガスピがマニラにスペイン植民地政庁を樹立 | マニラ市の創設記念日(Araw ng Maynila, 6月24日) |
| 1571年5月19日/6月3日 | レガスピがマニラを領有(5月19日)/バンクサイ海峡の戦い(6月3日)でマカベベのタリク・スライマンらの抵抗を鎮圧 | 注(2026-08-26 検証で修正。初稿の「1571年5月19日 ラジャ・スライマンがスペインに抗戦」は日付と人物が混線していた。)「マニラのラジャ・スライマン」と「マカベベのタリク・スライマン(バンバリート)」は別人であり、日本語資料でしばしば混同される。出典:注 一次資料未到達(2026-08-26時点)=バンクサイ海峡の戦いの日付(6月3日)を Blair & Robertson 収録の同時代文書で確認できていない。人物の別人性は分野内資料「スペイン植民地期」§と整合 |
| 1571年12月11日 | パンパンガがルソン初の州として発足 | |
| 1572年8月20日 | レガスピ死去、ラベサリスが後継 | |
| 1574年11月7日 | 国王勅令によりフィリピン人の奴隷化を禁止 | |
| 1574年11月23日/12月2日 | 中国人海賊リマホン(Limahong)のマニラ襲撃(いずれも失敗) | |
| 1574年12月 | ラカンドゥーラの反乱(短期) | |
| 1580年 | 16〜60歳の男性に強制労働(ポロ)制度を導入 | 植民地支配の負担構造の中核 |
| 1581年 | 初代司教ドミンゴ・デ・サラサール着任/イエズス会到着 | |
| 1587〜1588年 | マハルリカの陰謀(Conspiracy of the Maharlikas) | 最初期の反乱計画 |
| 1593年 | 『ドクトリーナ・クリスティアーナ』(スペイン語・タガログ語)刊行=比国最初の印刷物 | |
| 1595年 | マニラ大司教区に昇格。ヌエバ・セゴビア、カセレス、セブの各司教区設置 | |
| 1600年 | バンダラ制(強制供出)導入/オランダの攻撃開始 |
3.2 17世紀
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1601年 | イゴロットの反乱 | |
| 1602年/1662年 | マニラの中国人(サングレイ)の蜂起 | 華人虐殺を伴う |
| 1611年4月28日 | サント・トマス大学(UST)設立認可文書。1645年11月20日に教皇インノケンティウス10世が大学に昇格 | アジア最古級の現存大学。1680年5月12日に王室の庇護下へ |
| 1621〜1622年 | タンブロットの反乱(ボホール)、バンカウの反乱(レイテ) | 宗教回帰型の反乱 |
| 1637年 | トマス・ピンピンが『Sucesos Felices』刊行(最初の新聞様式の刊行物) | |
| 1645年11月30日 | ルソン大地震。マニラ壊滅。死者600〜3,000人 | 注死者数の幅が非常に大きい。PHIVOLCS(1990年ルソン地震モノグラフ「Historical Seismicity Along the Digdig Fault」、典拠 SEASEE 1985)は「マニラだけで住宅の少なくとも25%が全壊し、約3,000人の死傷者(casualties)」と記す。PHIVOLCS の "3,000" は「死傷者」であって「死者」ではない点に注意(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を PHIVOLCS に差し替え。注PHIVOLCS サイトは TLS 証明書チェーンの不備で直接取得できず、本文は検索インデックス経由で確認) |
| 1646年10月4日 | ラ・ナバル・デ・マニラ海戦でスペイン=フィリピン連合軍がオランダ艦隊を撃退 | 10月の「La Naval」祭の起源 |
| 1649〜1650年 | スムロイの反乱、ピンタドスの反乱 | |
| 1660年10月7日 | マニアゴの反乱(パンパンガ) | |
| 1660年12月15日 | マロンの反乱(パンガシナン) |
3.3 18世紀
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1704年 | ブルネイのスルタンが北ボルネオをスールーのスルタンに割譲 | 現在まで続くサバ領有権問題の起点 |
| 1744〜1829年 | ダゴホイの反乱(Dagohoy Rebellion, ボホール)=比国史上最長の反乱(85年) | |
| 1754年5月15日 | タール火山の大噴火。周辺の町が壊滅 | |
| 1762年9月24日 | 英艦隊がマニラ湾に進入(戦列艦8・フリゲート3・輸送船4、兵員6,839名) | 注(2026-08-26 再検証で修正。初稿は9月22日。)出典:注 一次資料未到達(2026-08-26時点)。一次史料集は Blair & Robertson, The Philippine Islands, 1493–1898, Vol. 49(1762–1765/Project Gutenberg #56778。Archivo General de Indias 文書の英訳、コーニッシュ提督・ドレイパー将軍書簡を収録) だが、本工程では全文中の該当箇所に到達できていない。注ドレイパー自身の日誌は「1762年9月23日に比島に到着」とし、マニラ側に艦隊接近の報が届いたのは9月22日とする。同じ史料集の内部でも日付が食い違うことが指摘されており、9月22/23/24日の3説が併存する。分野内資料「スペイン植民地期」§7は「1762.9.24」。七年戦争の一環 |
| 1762年10月6日 | マニラが英国の支配下に陥落(1762〜1764年の英国占領) | 注(2026-08-26 検証で修正。初稿は10月5日。)出典:注 一次資料未到達(2026-08-26時点)(Blair & Robertson Vol. 49 の該当文書に到達できず)。分野内資料「スペイン植民地期」§7は「1762.10.5 シモン・デ・アンダがフォート・サンティアゴから脱出/1762.10.6 サン・ディエゴ稜堡が破られマニラ陥落」と2段階で記す。10月4〜5日は砲撃・突入準備の段階。「5日陥落」とする資料も流通するため、幅で書くなら「10月5〜6日」 |
| 1762年10月6日/8日 | シモン・デ・アンダがパンパンガ州バコロールに臨時政府を樹立 | スペイン側の抵抗拠点 |
| 1762年11月2日 | ドーソン・ドレイクが初代英国総督に | |
| 1762年11月14日 | シラン(Diego Silang)の反乱(イロコス) | |
| 1763年2月10日 | パリ条約により英国がマニラをスペインに返還 | 注条約締結日と現地の実際の返還・撤退(1764年3〜6月)は1年以上ずれる。混同注意 |
| 1763年5月28日 | ディエゴ・シランの死 | 以後、妻ガブリエラ・シランが指揮を継ぐ |
| 1763年9月 | ガブリエラ・シラン処刑 | 「フィリピンのジャンヌ・ダルク」 |
| 1764年3月17日 | シモン・デ・アンダがラ・トーレに統治権を引き渡す | |
| 1764年4月第1週/6月11日 注 | 英軍がマニラ・カビテから乗船・撤収(4月第1週)/最後の英国艦船が退去(6月11日とする資料) | 注(2026-08-26 検証で併記化)出典:注 一次資料未到達(2026-08-26時点)。分野内資料「スペイン植民地期」§7は「1764.3.29〜4月第1週 英軍撤退」と記す。「6月11日」説とは2か月ずれるため、どちらか一方だけを書かないこと |
| 1768年5月17日/1769年7月23日 | イエズス会追放の勅令到着/実際の追放 | |
| 1774年11月9日 | カルロス3世の命により小教区の「世俗化(secularization)」開始 | 1872年のゴンブルサ事件へ直結する対立の起点 |
| 1781年 | 総督ホセ・バスコ・イ・バルガスが「祖国の友経済協会(Sociedad Económica de los Amigos del País)」を設立 | 注(2026-08-26 検証で修正。初稿は1780年。出典:CulturEd(Philippine Cultural Education Online/NCCA系の公教育向け事典)「Basco, Jose y Vargas」="Itinatag niya noong 1781 ang Sociedad Economica de los Amigos del Pais"=1781年設立。注「1781年4月26日」とする日付も流通するが原典未確認。同項はタバコ専売について「1780年に国王の許可、1782年に実施」と記し、本表の記述と整合する。2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を差し替え) |
| 1782年3月1日 | タバコ専売制(tobacco monopoly)導入(廃止は1880年説と1882年説が併存 注) | 注(2026-08-26 検証で修正、同日の再検証で終期を併記化。初稿は1781年導入で、分野内資料「通史」§2.3の「1782〜1882年」と1年ずれていた。出典:CulturEd「Basco, Jose y Vargas」(1780年に国王の許可、1782年に実施)/導入日3月1日は分野内資料「スペイン植民地期」§7)注終期は資料により割れている:「1880年」(米議会図書館 Country Studies を典拠とする分野内資料「スペイン植民地期」§7・§9)、「1881年」(CulturEd="ipinatigil din ng Hari noong 1881")、「1882年」(分野内資料「通史」§2.3・本稿初稿)の3説。勅令の年と実施完了の年のずれが原因とみられ、どちらか一方だけを書かないこと。植民地財政の柱。カガヤン渓谷等で栽培強制、バシ暴動(1807年、イロコス)等を誘発 |
| 1785年 | マニラ=スペイン間の定期郵便開始 |
3.4 19世紀前半〜中葉
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1814年2月1日 | マヨン火山の大噴火。カグサワの町が埋没。犠牲者約1,200人(PHIVOLCS) | カグサワ教会の鐘楼だけが残る象徴的景観 |
| 1815年 | マニラ=アカプルコ・ガレオン貿易が終焉(約250年) | メキシコ独立運動の影響 |
| 1863年6月3日 | マニラ地震(M6.4)。死者約1,000人 | |
| 1867年 | 台風「Angela」。死者約1,800人 | 19世紀最悪級の台風 |
| 1872年1月20日〜 | カビテ兵乱(Cavite Mutiny) | 注反乱の実態は待遇改善要求の小規模な兵変だが、当局は「独立陰謀」と拡大解釈した |
| 1872年2月17日 | ゴンブルサ(GomBurZa)=マリアノ・ゴメス、ホセ・ブルゴス、ハシント・サモラの3神父がガローテ刑で処刑 | フィリピン・ナショナリズムの出発点。リサールは『エル・フィリブステリスモ』を彼らに捧げた |
3.5 プロパガンダ運動と革命(1880年代〜1898年)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1887年3月 | ホセ・リサール『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』ベルリンで刊行。初版2,000部、印刷所は Berliner Buchdruckerei Aktiengesellschaft。印刷費はマキシモ・ビオラが300ペソを融通 | 出典:フィリピン国立図書館(National Library of the Philippines)"The Making of Noli Me Tangere: Rizal's Berlin Edition"(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を国立図書館の公式解説に差し替え)。注刊行年を1886年とする資料・競売目録もあるが誤り。印刷完了は1887年3月 |
| 1891年 | リサール『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』ゲントで刊行 | |
| 1892年7月3日 | リサールが「ラ・リガ・フィリピナ(La Liga Filipina)」を結成 | |
| 1892年7月7日 | アンドレス・ボニファシオらがカティプナン(KKK=Kataastaasang Kagalanggalangang Katipunan…)を結成 | 注結成日は「リサール逮捕の報を受けた7月7日」とするのが通説 |
| 1892年7月 | リサール、ダピタン(サンボアンガ・デル・ノルテ)へ流刑 | |
| 1896年8月19日 | スペイン人修道士によりカティプナンが露見 | |
| 1896年8月23〜26日 | 「プガドラウィンの叫び(Cry of Pugad Lawin)」=フィリピン革命の開始 | 注日付・場所とも決着していない。8月23日(ピオ・バレンスエラ証言/アゴンシリョ説)、8月24日(サンティアゴ・アルバレス説)、8月25日(スペイン軍オレガリオ・ディアス中尉報告)、8月26日(グィリェルモ・マサンカイ証言/サイデ説)。場所もバリンタワク/プガドラウィン/バハイ・トロ/カンコンで割れる。1963年にマカパガル大統領が公式記念日を8月23日・ケソン市プガドラウィンに変更した |
| 1896年12月30日 | ホセ・リサール、バグンバヤン(現ルネタ/リサール公園)で銃殺 | 12月30日は「リサール・デー」として国民の祝日 |
| 1897年3月22日 | テヘロス会議(Tejeros Convention)。エミリオ・アギナルドが不在のまま大統領に選出 | ボニファシオ派とアギナルド派の分裂の決定的瞬間 |
| 1897年5月10日 | アンドレス・ボニファシオ、弟プロコピオとともにマラゴンドン(カビテ)で処刑 | 注逮捕は4月、処刑は「5月」とのみ記す資料もある |
| 1897年12月14〜15日 | ビアク・ナ・バト協定(Pact of Biak-na-Bato)。アギナルドは香港へ亡命 | |
| 1898年5月1日 | マニラ湾海戦。ジョージ・デューイ率いる米アジア艦隊がスペイン艦隊を撃破 | 米西戦争の一戦。以後フィリピンは米西の綱引きの場に |
| 1898年5月19日 | アギナルドが米艦で帰国、革命を再開 | |
| 1898年6月12日 | フィリピン独立宣言(カビテ州カウィット、アギナルド邸のバルコニーで) | 注「独立記念日」問題。当時も1946年時点でも米国は承認せず、公式の独立記念日は長らく7月4日だった。1962年5月12日、マカパガル大統領が布告28号で6月12日を特別祝日とし、1964年の共和国法4166号で独立記念日を正式に6月12日へ変更 |
| 1898年8月13日 | 「マニラ模擬戦(Mock Battle of Manila)」。スペインが米軍にのみ降伏、比軍は市内から排除される | 米比対立の直接的火種 |
| 1898年9月15日 | マロロス議会(Malolos Congress)召集 | |
| 1898年12月10日 | パリ条約。スペインが2,000万米ドルでフィリピンを米国に割譲 | 注「1899年」と誤記する資料が流通している。署名は1898年12月10日(出典:Yale Law School Avalon Project 所収のパリ条約原文=署名日1898年12月10日、第3条「合衆国はスペインに2,000万ドルを、本条約の批准書交換後3か月以内に支払う」)、米上院の批准同意は1899年2月6日(出典:米国務省歴史部 Office of the Historian, "The Philippine-American War, 1899–1902"="On February 4, 1899, just two days before the U.S. Senate ratified the treaty, fighting broke out")、発効(批准書交換・大統領布告)は1899年4月11日(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を条約原文+米国務省に差し替え) |
| 1898年12月21日 | マッキンリー大統領の「Benevolent Assimilation(善意の同化)」宣言 |
4. 第一共和国と米比戦争(1899〜1902)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1899年1月21日 | マロロス憲法(Malolos Constitution)公布 | 注公布日を1月20日、施行を1月23日とする資料もある |
| 1899年1月23日 | 第一フィリピン共和国(マロロス共和国)成立。アギナルド大統領就任 | アジア初の共和国憲法とされる。運用は1899年1月23日〜1901年3月23日 |
| 1899年2月4日 | 米比戦争勃発。米兵ウィリアム・W・グレイソンがマニラ郊外(Sociego通り/Tomas Arguelles通り)で比兵に発砲 | |
| 1899年3月末 | マロロス陥落、革命政府はパンパンガ州サンフェルナンドへ移動 | |
| 1899年6月2日 | 第一共和国が対米宣戦布告 | 注戦闘は既に2月から始まっており、宣戦は後追い(2026-08-26 再検証で年表内の日付順を修正) |
| 1899年9月〜 | 比側がゲリラ戦へ移行、米側は掃討戦へ転換 | |
| 1901年3月23日 | アギナルド捕縛(イサベラ州パラナン) | 4月1日に対米忠誠を宣誓 |
| 1901年9月28日 | バランギガ事件(サマール州)。以後の米軍の報復掃討が「サマール作戦」として問題化 | バランギガの鐘は2018年に米国から返還された |
| 1902年7月1日 | フィリピン組織法(Philippine Organic Act)成立 | |
| 1902年7月4日 | 米国が米比戦争の終結を公式宣言 | 注「終結」は米国側の一方的宣言。実際には各地の抵抗、モロ紛争が継続 |
| 1913年6月15日 | バッド・バグサックの戦いでモロ反乱が終息 | 組織的抵抗の終わり |
| — | 米比戦争の犠牲:米兵戦死 4,200人超/比兵戦死 20,000人超/比国民間人死者 最大200,000人(暴力・飢餓・疾病による) | 注推計値。出典:米国務省歴史部 Office of the Historian, "The Philippine-American War, 1899–1902"="resulted in the death of over 4,200 American and over 20,000 Filipino combatants" / "As many as 200,000 Filipino civilians died from violence, famine, and disease"(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を米国務省に差し替え。初稿の「比兵戦死 約10,000人(アギナルドの主張)」「民間人200,000〜250,000人」「コレラで少なくとも150,000人」は米国務省の記述では裏付けられず、内訳の帰属を確認できないため削除した) |
5. アメリカ統治期(1902〜1941)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1900年4月〜 | ウィリアム・ハワード・タフトが第二次フィリピン委員会(Second Philippine Commission)委員長として来比 | 注(2026-08-26 再検証で修正。初稿の「1900年 タフトが初代文民総督に」は年が誤り。)出典:米連邦司法センター(Federal Judicial Center)"William Howard Taft" 伝記="President, U.S. Philippine Commission, 1900–1901"/分野内資料「米国統治期」§(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を米政府公式伝記に差し替え) |
| 1901年7月4日 | タフトが初代民政長官(Civil Governor)に就任 | (同上で追加)出典:米連邦司法センター(FJC)"William Howard Taft" 伝記="Civil Governor, Philippine Islands, 1901–1904"/分野内資料「米国統治期」§(「1901年7月4日:タフトが民政長官に就任」)と統一。注離任年はFJCが「1904年」、分野内資料が「1903年12月23日」で1年ずれる(1904年2月に陸軍長官就任のため、実務上の離任は1903年末とみられる) |
| 1902年7月4日 | 軍政長官(Military Governor)職が廃止され、タフトが初代総督(Governor-General)に。同日ローズベルト大統領が米比戦争終結と恩赦を布告 | (同上で追加。出典:分野内資料「米国統治期」§。タフトの離任は1903年12月23日) |
| 1907年7月30日/10月16日 | フィリピン議会(Philippine Assembly=下院)の選挙(7月30日)と開院(10月16日)。定数80、上院にあたるのは任命制のフィリピン委員会 | 注(2026-08-26 再検証で修正。初稿の「アジア初の全国民選議会」は指標のない最上級。分野内資料「米国統治期」§は「『アジア初の民選議会』は未確認。確実なのは『フィリピン史上初の全国選挙による立法府』」と明記しており、本稿もこれに合わせる。政府(Official Gazette)が公式に主張しているのは「アジア初の共和制憲法=1899年1月のマロロス憲法」であって議会の方ではない〈分野内資料「通史」§〉)以後、毎年のように独立決議を可決 |
| 1916年8月29日 | ジョーンズ法(Jones Law/Philippine Autonomy Act)。任命制のフィリピン委員会を廃し、上院24・下院90の民選二院制へ。前文で将来の独立を約束 | (2026-08-26 再検証で日付追記。出典:分野内資料「米国統治期」§7-2「1916年8月29日」) |
| 1934年3月24日 | タイディングス=マクダフィー法(Tydings–McDuffie Act/Philippine Independence Act)。10年の移行期を経て1946年の独立を約束 | (同上で日付追記。出典:分野内資料「米国統治期」§年表=米国官報 Statutes at Large 48 Stat. 456 原文確認)注前年のヘア=ホーズ=カッティング法は比議会が拒否した。両者の混同に注意 |
| 1935年5月14日 | 憲法批准の国民投票(賛成 1,213,046票=96.43%) | |
| 1935年11月15日 | フィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)発足。マニュエル・L・ケソン初代大統領 | |
| 1937年 | タガログ語を基礎とする国語(後のフィリピノ語)の制定方針 |
6. 日本占領期と第二次世界大戦(1941〜1945)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1941年12月8日 | 日本軍がフィリピンを攻撃・侵攻(真珠湾攻撃の約10時間後) | 注日付は現地時間。日本側の記述(12月8日)と米側の記述(12月7日=真珠湾)を混同しやすい |
| 1941年12月26日 | マッカーサーがマニラを「無防備都市(open city)」と宣言 | |
| 1942年1月2日 | 日本軍がマニラ占領 | |
| 1942年4月9日 | バターン陥落。飢餓と疾病下の米比軍 約72,000〜78,000人が降伏(うち大半の約66,000人はフィリピン人、米国人は約12,000人) | 注(2026-08-26 再検証で修正。初稿は「約76,000人」と点推定で書いていた。出典:米陸軍公式サイト army.mil「History of the Bataan Death March」="approximately 75,000 Filipino and American prisoners of war"(米陸軍の別記事では「11,000人超の米兵と60,000人の比兵=約71,000人」「約70,000人」「70,000〜100,000人」と幅がある)。分野内資料「日本占領期」§2の「約72,000〜78,000人」は米陸軍の諸記述の幅と整合する(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を米陸軍に差し替え)4月9日は「Araw ng Kagitingan(勇者の日)」として国民の祝日。注「米軍史上最大の集団降伏」という最上級を使う場合は、①米比軍(USAFFE)全体で数えるのか②米国籍将兵だけで数えるのかの指標を必ず明示すること(分野内資料「日本占領期」§2) |
| 1942年4月9〜17日 | バターン死の行進(Bataan Death March)。行程 約105km(米陸軍は「約65マイル」)。行進中の死者:比人 約2,500人/米人 約500人。到着後のオドンネル収容所での死者:比人 約26,000人/米人 約1,500人(推計) | 注(2026-08-26 出典衛生工程で出典と数値を全面差し替え。出典:米陸軍公式サイト army.mil「History of the Bataan Death March」="about 65 miles"/"Roughly 2,500 Filipinos and 500 Americans died during the march itself"/"an additional 26,000 Filipinos and 1,500 Americans" perished at Camp O'Donnell)「死の行進の死者」として流通する 5,000〜18,000/7,000〜10,000 等の数字は、行進中の死者と収容所での死者を分離していない。「7,000〜1万人」は占領期全体の要約値として日本語圏で流通する数字であり、片方を消さずに両系統を意識すること。キャンプ・オドンネル到着後の死亡は行進中の死者に含まれない(含めると総数はさらに増える) |
| 1942年5月6日 | コレヒドール陥落。生存者13,000人が降伏 | |
| 1943年10月14日 | 第二フィリピン共和国(日本の後援)成立。ホセ・P・ラウレル大統領 | 注1943年憲法はKALIBAPIが9月7日に批准、運用は1943年10月14日〜1945年8月17日 |
| 1944年10月20日 | マッカーサーのレイテ島上陸(「I shall return」の実行) | |
| 1944年10月23〜26日 | レイテ沖海戦(史上最大級の海戦) | |
| 1945年2月3日〜3月3日 | マニラの戦い/マニラ大虐殺。イントラムロスを含む市街が壊滅 | 「アジアで最も破壊された都市の一つ」とされる |
| 1945年9月2日 | 日本の降伏文書調印(東京湾)。フィリピンの占領が終結 | 注比国内の山下奉文の降伏はバギオで9月3日 |
| — | 占領期のフィリピン人死者:注推計が大きく割れる。①約500,000人(総死者527,000人とする推計も)/②1,120,000人=当時の人口1,700万人の17人に1人(比国側で広く引用される数字) | 注(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を除去し、比国政府系の数字を併記)出典②:PNA(フィリピン通信社)「Filipino resistance, sacrifices remembered in WWII exhibit」=Philippine World War II Memorial Foundation 展示・研究者 Desiree Ann Benipayo「The death toll was staggering -- 1.12 million died out of the 17 million population」。参考:PIA(フィリピン情報庁)はマニラ市街戦(1945年2月3日〜)だけで比国民間人 約100,000人・日本兵16,665人・米兵1,101人が死亡としている。日本語圏で流通する「約50万人」は比国側の公式的な引用値(112万人)のおよそ半分である点に注意 |
7. 独立から第三共和国(1946〜1965)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1946年4月23日 | マヌエル・ロハスが54%で大統領選に勝利 | |
| 1946年7月4日 | フィリピン共和国の独立を米国が正式承認(トルーマン大統領 布告2695号) | 注現在の独立記念日は6月12日。7月4日は1962年以降「Republic Day(比米友好の日)」として位置づけが変更された |
| 1946年 | ベル通商法(Bell Trade Act)。米国製品の割当制度と、米国市民に比国の鉱物・森林等の「対等な権利(parity rights)」を付与 | 経済的従属の象徴として長く政治争点に |
| 1947年3月14日 | 米比軍事基地協定(Military Bases Agreement)署名。当初99年(後に短縮) | 注(2026-08-26 再検証で修正。初稿は「発効」と書いていたが、3月14日はマニラでの署名日。発効日は本検証では一次資料に到達できず未確認。「署名」と「発効」を取り違えないこと) |
| 1948年4月15日 | ロハス大統領、クラーク空軍基地で演説中に心臓発作で死去 | |
| 1948年4月17日 | エルピディオ・キリノが大統領に就任 | |
| 1950〜1955年 | 朝鮮戦争。比国は延べ7,420人を派兵(PEFTOK=Philippine Expeditionary Forces to Korea、第2・10・14・19・20の5個大隊戦闘団(BCT)が交代)。戦死112人・戦傷299人・行方不明16人・捕虜41人 | 注(2026-08-26 出典衛生工程で数値を修正。出典:在韓フィリピン大使館(seoulpe.dfa.gov.ph)PEFTOK記念行事の公式広報=総員 7,420名、戦死 112名。初稿「7,450人以上」→第3次検証「約7,500人」→本工程「7,420人」と3度動いた。「7,500人」はキリノ大統領が議会承認を得た派兵枠の数字であって実派遣数ではない。戦死者も「113人」ではなく112人)根拠法は共和国法573号(1950年9月7日)。1950年9月19日、第10BCT(約1,400名。注初回派遣を「1,468名」とする資料もある)が釜山に上陸=アジアで最初・世界で5番目の派兵。国連軍のうち6番目の規模 |
| 1946〜1954年頃 | フク団(Hukbalahap)の武装闘争。ラモン・マグサイサイが鎮圧 | |
| 1953年 | ラモン・マグサイサイ大統領就任(〜1957年) | |
| 1956年5月9日 署名/1956年7月23日 発効 | 日比賠償協定(日本外務省 二国間関係資料) | 注「1956年」とだけ記す資料が多いが、署名と発効で2か月半のずれがある。日本のサンフランシスコ講和条約に対する比国批准も1956年 |
| 1957年3月17日 | マグサイサイ大統領、セブ州バランバンのマヌンガル山(Mount Manunggal)で搭乗機墜落死 | 注搭乗者数が資料により3説に割れる(2026-08-26 出典衛生工程で第3説を追加):①27人搭乗・26人死亡/②26人搭乗・25人死亡/③25人搭乗・24人死亡。出典①:Cebu Daily News(Inquirer系)「62 years of Magsaysay plane crash: History inscribed in Mount Manunggal」=墜落地の碑文に基づき「搭乗27人・死者26人(マグサイサイを含む)」。生存者が『フィリピン・ヘラルド』記者ネストル・マタ(Nestor Mata)1人だった点はすべての説で一致。機体は改装間もない双発 C-47「Mt. Pinatubo」、セブ・ラフグ空港を3月17日1時15分に離陸。3月22日の葬儀に約200万人 |
| 1957年 | カルロス・ガルシア大統領就任。「Filipino First政策」 | |
| 1959年(注1966年とする資料あり) | ボーレン=セラーノ協定(Bohlen–Serrano Agreement)。基地の租借期間を99年から25年(5年ごと更新)に短縮 | 注(2026-08-26 再検証で併記化)短縮の年が資料により割れる。比国内で流通するのは「1959年のボーレン=セラーノ協定で99年→25年」だが、マルコス大統領自身が1979年1月15日の Batasang Pambansa 報告で「In 1966, on my state visit to the United States, we entered into a landmark amendment to the 1947 bases agreement by cutting down to 25 years the unexpired portion of the original 99-year duration of the military bases」と述べており、比国官報(Official Gazette)に収録されている(=1966年の改定=ラモス=ラスク協定に帰する一次資料)。1959年交渉の米側一次記録は FRUS 1958–1960, Vol. XV, Docs. 435・447(米国務省歴史部)=1958年11月12日にマニラで予備交渉開始、1959年9月16日にボーレンが期間・終了条項を含む覚書草案を本国に送付、セラーノは「99年という数字は比国で政治的・心理的に極めて不幸な含意を持つ」と繰り返し述べた、と記録する。どちらか一方だけを書かないこと。いずれの説でも「25年」の起算により基地条約は1991年に期限を迎えた(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を比国官報+FRUS に差し替え。注officialgazette.gov.ph は CAPTCHA により直接取得できず、本文は検索インデックス経由で確認) |
| 1961年 | ディオスダド・マカパガルが55%対45%でガルシアを破り当選 | |
| 1962年 | 北ボルネオ(サバ)に対する領有権を正式に主張 | 1704年のスールー王国への割譲が根拠 |
| 1962年5月12日 | マカパガル大統領、布告28号で6月12日を特別祝日に | |
| 1964年8月4日 | 共和国法4166号(RA 4166)成立。独立記念日を7月4日から6月12日に変更し、7月4日を「Philippine Republic Day」と改称 | (2026-08-26 出典衛生工程で法令原文に差し替え。出典:LawPhil「Republic Act No. 4166」原文=標題 "AN ACT CHANGING THE DATE OF PHILIPPINE INDEPENDENCE DAY FROM JULY FOUR TO JUNE TWELVE, AND DECLARING JULY FOUR AS PHILIPPINE REPUBLIC DAY"、Approved: August 4, 1964、第1条「The twelfth day of June is hereby proclaimed as the Philippine Independence Day...」)注「比米友好の日(Philippine–American Friendship Day)」の呼称はRA 4166の文言ではなく後年の慣用 |
| 1963年 | 農地改革法(Agricultural Land Reform Code)成立 |
8. マルコス期(1965〜1986)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1965年 | フェルディナンド・E・マルコスがマカパガルを破り当選(就任は1965年12月30日) | |
| 1968年3月18日 | ジャビダ虐殺(Jabidah Massacre)。コレヒドール島でモロ人訓練生が殺害される | 注犠牲者数が資料により大きく割れる(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を上院・官報系に差し替え)。上院国防委員会(マグサイサイ委員長)報告の認定は「確実に殺害3人/銃撃による負傷3人(ヒビン・アルーラを含む)/行方不明14人(遺体は海に投棄されたとみられ死亡と推定)/その他人数不詳の行方不明・死亡推定」。Rappler/Vitug & Gloria は「少なくとも23人」。「27人」「64人」等も流通する。訓練生の総数自体が135人(アキノ上院議員の集計)〜180人(元大尉シリロ・オロペサの集計)で割れる。出典:比国官報(Official Gazette)所収 ベニグノ・S・アキノ・ジュニア上院議員の特権演説「Jabidah! Special Forces of Evil?」(1968年3月28日)/Rappler「Jabidah and Merdeka: The inside story」(注官報は CAPTCHA により直接取得できず、Rappler は本文を取得して確認)。注アキノ自身が同じ演説で「スールーで確認した限り、大量虐殺の蓋然性は薄い」とも述べており、規模については当時から争いがある。1968年に将校8名・下士官兵16名が軍法会議に付されたが、1971年に全員無罪。モロ分離運動の直接的引き金 |
| 1968年5月 | ウドトグ・マタラムが「ムスリム独立運動(MIM)」を結成 | |
| 1968年12月26日 | フィリピン共産党(CPP)再建(ホセ・マリア・シソンら12名、パンガシナン州アラミノス、毛沢東75歳誕生日に合わせて) | |
| 1969年3月29日 | 新人民軍(NPA)創設(シソン+ベルナベ・ブスカイノ) | 現在まで続くアジア最長級の共産主義武装闘争 |
| 1970年1〜3月 | 「第一四半期の嵐(First Quarter Storm)」=学生・労働者の大規模street protest | |
| 1971年8月21日 | プラザ・ミランダ爆破事件(自由党の集会)。直後に人身保護令状を停止 | 注実行主体は今も確定していない。マルコスによる偽旗説とCPP関与説が対立 |
| 1972年9月21日 署名/9月23日 発表 | 布告1081号=戒厳令(Martial Law) | 注「9月21日」と「9月23日」の両方が流通。署名日は9月21日(マルコスの「7」への数秘的こだわりのため遡って日付けされた)、テレビでの発表は9月23日午後7時15分 |
| 1972年10月21日 | ヌール・ミスアリがモロ民族解放戦線(MNLF)を結成 | 戒厳令布告の約1か月後 |
| 1973年1月17日 | 1973年憲法が「市民集会(citizens' assemblies)」方式で批准(賛成14,976,561票=95.27%) | 注批准手続きの合憲性は当時から強く争われた |
| 1973年4月24日 | 民族民主戦線(NDF/NDFP)結成 | |
| 1976年8月17日 0時11分(現地時間)/8月16日16時11分(UTC) | モロ湾地震(PHIVOLCS表記 Mw8.1。注Mw8.0/M7.9 とする表記も併存)と津波 | 注(2026-08-26 検証で修正・併記化。初稿は「8月16日」のみで、現地日付は8月17日。出典:PHIVOLCS「1976 August 17 Mw8.1 Moro Gulf Earthquake」(PHIVOLCS はモーメントマグニチュードを Mw8.1 と表記しており、本稿の「Mw8.0」とわずかにずれる。別ページでは M7.9 とも書かれており、PHIVOLCS 内部でも表記が揺れている)/USGS(1976-08-16 16:11 UTC、6.262°N 124.023°E、深さ33km、mb6.4/MS7.9)。「4,791人」の出所は PHIVOLCS が掲げる Badillo & Astilla の集計で、第9地域 死者1,440・行方不明909、第12地域 死者3,351・行方不明1,379 の死者合計(1,440+3,351=4,791)である。NDCC/NDRRMC の集計ではない(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を PHIVOLCS/USGS に差し替え。注PHIVOLCS サイトは TLS 証明書チェーンの不備で直接取得できず、本文は検索インデックス経由で確認)USGS は「5,000〜8,000人が死亡」、NOAA は「8,000人超が死亡または行方不明、負傷10,000人、家を失った者90,000人」とする。津波が死者の85%・負傷者の65%・行方不明者の95%を占めた 死者数も割れる:4,791人(PHIVOLCS 掲載の Badillo & Astilla 集計の第9・第12地域合計)と 5,000〜8,000人(USGS)/8,000人超(NOAA、死者・行方不明の合計)。死者の約85%は地震ではなく津波による。「比国史上最悪の地震」という最上級は「単一地震の死者数」を指標にした場合に限って成り立つ |
| 1976年12月23日 | トリポリ協定(Tripoli Agreement)。政府とMNLFがミンダナオ自治を合意 | |
| 1978年4月7日 | 暫定バタサン・パンバンサ(国会)選挙 | |
| 1981年1月17日 | 布告2045号で戒厳令を「解除」 | 注解除後もマルコスは立法権を含む大半の権限を保持。実態は独裁の継続 |
| 1981年6月16日 | 大統領選挙(主要野党はボイコット) | |
| 1983年8月21日 13時頃 | ベニグノ・"ニノイ"・アキノ・ジュニア暗殺(マニラ国際空港、パラニャーケ) | 同空港は後にニノイ・アキノ国際空港(NAIA)に改称。8月21日は「Ninoy Aquino Day」として祝日(2026年も8月21日が祝日) |
| 1984年10月23日 | アグラバ委員会(Agrava Board)報告。多数意見はベル参謀総長らを訴追対象とし、少数意見(アグラバ委員長)は軍の謀議を認定しつつベルを免責 | 注多数・少数の2報告が並立した点に注意 |
| 1990年/1991年 | サンディガンバヤンが16被告に終身刑(1990年)、最高裁が是認(1991年) | |
| 1986年2月7日 | スナップ選挙(繰り上げ大統領選)。集計をめぐりCOMELEC職員が抗議退場 | |
| 1986年2月22〜25日 | エドサ(EDSA)ピープルパワー革命 | |
| 1986年2月25日 | コラソン・アキノとマルコスが同日に別々に就任宣誓。マルコスは同夜ハワイへ亡命 | |
| — | 戒厳期の人権侵害(出所ごとに対象期間が違う。合算・単純比較は誤り) | 注(2026-08-26 検証で全面差し替え。初稿は「殺害3,257/拷問35,000/失踪737/拘禁70,000」を一括して「Amnesty と TFDP の集計」と帰属させていたが、分野内資料「戒厳令期」§3-1・「通史」§6と食い違っていた。) ①アムネスティ・インターナショナル(対象1972〜1981年):殺害 3,240/拷問 34,000/投獄 70,000 1981年までしかカバーしない ②アルフレッド・W・マッコイ(対象1975〜1985年):殺害 3,257/拷問 約35,000/投獄 約70,000(Richard J. Kessler の集計に由来する派生値) ③フィリピン政府(人権侵害被害者請求委員会 HRVCB)認定(対象1972年9月21日〜1986年2月25日、RA 10368の定義):11,103名を被害者として認定(2018年5月に最終確定/申請者は2015年5月時点で75,730名)=行政上の確定値であり推計ではない 「強制失踪737件」は上記いずれの系列にも対応が確認できなかったため削除した(未確認)。出典:分野内資料「戒厳令期」§3-1、「通史」§6 |
9. ポスト・エドサ(1986〜2000)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1986年3月25日 | 布告3号「自由憲法(Freedom Constitution)」 | |
| 1987年2月2日 | 1987年憲法の国民投票、同日施行 | 注批准の公式布告(布告58号)は2月11日。「2月2日」「2月11日」の両方が流通 |
| 1986〜1990年 | 複数回のクーデター未遂(1987年8月28日、1989年12月1〜9日が最大規模) | |
| 1990年7月16日 | ルソン島地震(M7.8)。死者1,621人。バギオ市が壊滅的被害 | |
| 1991年6月15日 13時42分 | ピナトゥボ山の破局噴火(VEI 6)。死者847人(多くは降灰による屋根の崩落) | 同日、台風「Yunya(現地名Diding)」が火山の北約75kmを通過。降雨と火山灰が結合し大規模ラハールを発生させた。成層圏に約2,000万トンの二酸化硫黄を放出し、1991〜93年に地球平均気温を約0.5℃(約1°F)低下させた(出典:USGS Fact Sheet 113-97 "The Cataclysmic 1991 Eruption of Mount Pinatubo, Philippines")。死者847人・その大半が降灰の重みによる屋根の崩落である点、および台風 Yunya が同時に来襲して火山灰を通常の海側ではなくルソン島側へ流し、湿った灰が屋根荷重を増した点は USGS 火山灰情報ページ「Impacts & Mitigation - Pinatubo 1991」が明記(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を USGS に差し替え)。注「北半球0.5〜0.6℃/地球平均0.4℃」という初稿の数字は USGS では裏付けられないため「地球平均 約0.5℃」に統一した。噴火直後(1991年7月17日時点)のPHIVOLCS系公式集計は死者320人・負傷279人で、847人はラハール等による後続死を含む累積値。事前避難により約6万人が避難し、USGS は「5,000人以上の命と2億5,000万ドルの財産を救った」と評価 |
| 1991年9月16日 | フィリピン上院が米軍基地条約の延長を否決 | アジアにおける米軍プレゼンス史の転換点 |
| 1991年11月5日 | 台風「Uring(Thelma)」がオルモック市を襲う。死者5,101〜8,000人 | 注死者数の幅が極端に大きい。比国史上2番目に死者の多い台風 |
| 1991年11月/1992年12月 | クラーク空軍基地/スービック海軍基地の比国への返還 | |
| 1992年 | フィデル・V・ラモス大統領就任(〜1998年) | |
| 1996年9月2日 | 政府=MNLF最終和平合意(Final Peace Agreement) | |
| 1997年 | アジア通貨危機。ペソ急落 | |
| 1998年 | ジョセフ・エストラーダ大統領就任 | (2026-08-26 再検証で表の列欠落を修正) |
| 1998年6月12日 | 独立宣言100周年(Centennial) | |
| 2000年3月 | エストラーダ政権がMILFへの「全面戦争(all-out war)」を宣言 | |
| 2000年11月20日/12月7日 | エストラーダ弾劾裁判が上院で開廷/審理開始 |
10. 21世紀前半(2001〜2016)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 2001年1月16日 | 上院の弾劾裁判で「第2の封筒」開封の可否を採決。開封賛成10、反対11で否決 | これがEDSA IIの直接の引き金 |
| 2001年1月17〜20日 | EDSA II(第2次ピープルパワー) | |
| 2001年1月20日 12時30分 | グロリア・マカパガル・アロヨがダビデ最高裁長官の前で大統領就任宣誓 | 注「辞任か罷免か」の法的性格が長く争われた |
| 2001年5月1日 | EDSA III。エストラーダ支持者がマラカニアン宮殿へ突入を図る | |
| 2004年 | アロヨが大統領選に勝利 | |
| 2005年6月 | 「Hello Garci」盗聴テープ疑惑(選挙介入疑惑) | |
| 2009年8月1日 | コラソン・アキノ元大統領死去(76歳) | これが息子ベニグノ・アキノ3世の出馬につながる |
| 2009年9月26日 | 台風「Ondoy(Ketsana)」。メトロマニラ広域で大洪水。NDCC 最終集計=死者464人・負傷529人・行方不明37人(合計1,030人)。注別系統で死者671人(うちメトロマニラ448人)という数字も流通 | 注(2026-08-26 出典衛生工程で数値を再修正。第3次・第4次検証が採った「死者671人/行方不明439人」は NDCC の集計と一致しない。)出典:NDCC Update Situation Report No.48 on TS "Ondoy" (Ketsana) and Typhoon "Pepeng" (Parma)、2009年11月12日6時現在(ReliefWeb 収録の NDCC 最終系報告全文)="Casualty remains at 1,030 broken down as follows: 464 Dead, 529 Injured and 37 Missing"。同報告は被災993,227世帯/4,901,234人、被害額111.06億ペソ(インフラ44.37億+農業66.69億)とする。注「671人」は間接死(レプトスピラ症死者=2009年10月22日時点でDOH集計240人 等)を加えた系統とみられるが、その合算根拠を示す一次資料には到達できていない。また NDCC 報告はメトロマニラ別の死者数を表章していないため「うちメトロマニラ448人」も一次資料未確認。同時期の台風 Pepeng(Parma)は別集計で死者465人・負傷207人・行方不明47人であり、両者を足し合わせた数字と混同しないこと。24時間雨量454.9mm(ケソン市 Science Garden、PAGASA)。必ず「◯月◯日時点・◯◯集計」を添えること |
| 2009年11月23日 | マギンダナオ虐殺(Maguindanao Massacre/Ampatuan Massacre)。犠牲者58人 | 注(2026-08-26 検証で修正。初稿の「少なくとも60人」は誤り。出典:PNA(フィリピン通信社)「Maguindanao massacre victims' kin hail court's guilty verdict」「2019: From judgment to justice」/Inquirer/CPJ=58人が殺害され、うち58人目(写真記者)の遺体は発見されていないため、ケソン市地方裁判所第221部・ソリス=レイエス判事は57件の殺人で有罪とした。アンパトゥアン一族8名を含む28名が主犯として仮釈放なしの終身刑(reclusion perpetua)、警官ら28名が57件の殺人で40年、15名が従犯として6〜10年。サジド・イスラム・アンパトゥアンら57名は疑わしきは罰せずで無罪、80名が逃亡中(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を PNA/Inquirer/CPJ に差し替え)ジャーナリスト・報道従事者の犠牲はPNA が「32人」と報じる一方 34人説もあり、団体によって12人・20人と数える例もある(数え方が「記者」か「取材車両の同乗者を含むか」で変わる)注。「報道関係者の単一事件としては世界最悪」という最上級の指標は「単一事件でのジャーナリスト死者数」。判決は2019年12月19日(ケソン市地方裁判所) |
| 2010年 | ベニグノ・"ノイノイ"・アキノ3世 大統領就任(〜2016年) | |
| 2012年10月15日 | バンサモロ枠組み合意(Framework Agreement on the Bangsamoro) | |
| 2013年1月22日 | フィリピンが国連海洋法条約(UNCLOS)附属書VIIに基づき対中仲裁を提起 | |
| 2013年2月12日 | ラハダトゥ(Lahad Datu, サバ)事件。スールー王国「王軍」を称する武装集団が上陸 | |
| 2013年8月26日 | 「Million People March」(PDAF=豚肉樽スキャンダルへの全国的抗議) | |
| 2013年9月9〜28日 | サンボアンガ危機。MNLFと政府軍が市街戦 | |
| 2013年10月15日 8時12分 | ボホール地震(Mw7.2、震源はボホール州サグバヤン南南西約6km・深さ12km)。死者222人・行方不明8人・負傷796人(NDRRMC)。歴史的石造教会10棟が倒壊・大破 | 注(2026-08-26 出典衛生工程で負傷者数を修正。第3次・第4次検証の「負傷976人」は誤りで、正しくは796人。出典:NDRRMC Update SitRep No.35 re Effects of Magnitude 7.2 Sagbayan, Bohol Earthquake(2013年11月3日)="To date, 222 individuals are reported dead, 796 injured, and 8 are missing"。「976」は「796」の数字の入れ替わりとみられ、分野内資料「災害データベース」§・「台風・地震・火山の各論」§にも同じ誤りが伝播しているため、両資料の担当者に申し送ること。初稿の「144人以上」は発災直後の速報値。経過:10月21日時点190人/10月23日時点195人(負傷651・不明12)→最終222人)原因は未知だった北ボホール断層(逆断層)。建物7.3万棟超が損壊(1.45万棟が全壊)、余震4,465回(2013年末まで) |
| 2013年11月8日 | 台風「Yolanda(Haiyan)」。死者6,300人・被災者約1,100万人=比国史上最悪の台風 | 注6,300人は公式集計。行方不明者を含めると7,000〜8,000人とする推計もある |
| 2014年3月27日 | バンサモロ包括合意(Comprehensive Agreement on the Bangsamoro, CAB) | |
| 2015年1月25日 | マママサパノ事件(Mamasapano clash)。作戦「Oplan Exodus」でPNP-SAF隊員44人が戦死(SAF44)。BBL審議が停滞 | (2026-08-26 再検証で日付・人数を確定。初稿は「日付は本稿では未確認」だった。出典:比国上院 公共秩序・危険薬物委員会ほか合同委員会報告(2015年3月17日公表、129頁。上院サイト legacy.senate.gov.ph に収録)=2015年1月25日午前4時過ぎ、PNP-SAF 第84 Seaborne 特別行動中隊がマレーシア人テロリスト「マルワン」(Zulkifli bin Hir)を殺害。SAF隊員44人が戦死、15人が負傷、MILF側は公式に少なくとも18人が死亡、非戦闘員5人が巻き添えで死亡。同報告は「時間差の目標到達(time after target)」が最大の致命的失敗とし、投入されたSAF隊員は392人だったのに対し敵対勢力は1,000人超と事前に把握されていたと認定。アキノ3世大統領に「究極の責任」があるとした(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を上院報告に差し替え。注上院サイトのPDFは403で本文を直接取得できず、GMA・Inquirer・Rappler 経由で内容を確認) |
| 2015年10月29日 | 仲裁裁判所が管轄権を認定(15の申立てのうち7件) | |
| 2016年5月9日 | ロドリゴ・ドゥテルテが大統領選に勝利 | |
| 2016年7月12日 | 南シナ海仲裁判断(PCA)。「九段線」内の歴史的権利は国際法上の根拠なしと認定。スカボロー礁は「岩(rock)」でありEEZ・大陸棚を持たないと判断 | 中国は判断を「紙屑」として拒否。2026年時点でも比国外交の法的支柱 |
11. ドゥテルテ期(2016〜2022)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 2016年6月30日 | ロドリゴ・ドゥテルテ大統領就任 | |
| 2016年〜 | 「麻薬戦争(war on drugs)」。警察公式の作戦死者数と人権団体の推計(数千〜3万人超)が大きく乖離 | 注政府発表と人権団体推計を必ず区別すること。本稿では確定値を提示しない |
| 2017年5月23日 | マラウィ攻囲戦(Battle of Marawi)開始。同日、布告216号でミンダナオ全域に戒厳令 | |
| 2017年7月22日/12月13日/2018年12月12日 | 議会が戒厳令を3度延長(それぞれ2017年末/2018年末/2019年末まで) | 注(2026-08-26 検証で修正。初稿の第1次延長「7月23日」は誤り。出典:比国下院プレスリリース(congress.gov.ph)/Inquirer「Congress votes 261-18 to extend Mindanao martial law 'til year's end」/Rappler=2017年7月22日(土)の両院特別合同会議で賛成261・反対18により布告216号の2017年12月31日までの延長を承認。内訳は下院が出席259名のうち賛成245・反対14、上院が出席20名のうち賛成16・反対4(反対はドリロン、オンティベロス、パンギリナン、バム・アキノ)。憲法上の60日上限がまさに7月22日に到来していた。7月25日、最高裁は「議会が招集・投票する義務は撤回または延長の意思がある場合に限る」として関連請願を全員一致で却下(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を下院公式発表+主要紙に差し替え) |
| 2017年10月17日/10月23日 | マラウィ「解放」宣言(10月17日、ドゥテルテ大統領)/戦闘終結宣言(10月23日、ロレンザーナ国防相) | 注(2026-08-26 検証で分離。初稿は「10月23日=解放宣言」と一本化していたが、大統領の解放宣言は10月17日、軍事作戦の終結宣言が10月23日。出典:Rappler「TIMELINE: The 'liberation' of Marawi」「Marawi combat operations over – Lorenzana」/GMA News/Inquirer=10月17日にドゥテルテ大統領が現地で「I hereby declare Marawi City liberated from terrorist influence」と宣言(前日16日未明にイスニロン・ハピロンとオマール・マウテを殺害)、10月23日にロレンザーナ国防相がクラーク(パンパンガ)でASEAN関連会合の傍ら「攻囲154日目」として全戦闘作戦の終結を発表)戦闘の犠牲:注武装勢力は「974人」(ロレンザーナ国防相の10月23日発表)とするのが公式で、本稿初稿の「978人」は裏付けが取れなかった(2026-08-26 出典衛生工程で修正)。政府軍168人(うち友軍誤射12人)、負傷1,400人以上、民間人は軍の戦闘区域内集計で47人(注のちに87人・うち40人は疾病死とする集計もある) |
| 2019年12月31日 | ミンダナオ戒厳令が3度目の延長満了で終了(宣言から953日) | |
| 2018年7月26日 | バンサモロ基本法(Bangsamoro Organic Law, RA 11054)署名 | |
| 2019年1月21日・2月6日 | バンサモロ住民投票(2段階) | |
| 2019年3月29日 | バンサモロ自治地域(BARMM)発足 | |
| 2020年1月30日 | COVID-19 国内初の確定症例(武漢からの38歳中国人女性、1月21日に香港経由でマニラ着) | |
| 2020年2月1日 | 国内初のCOVID-19死亡例(44歳中国人男性)=中国本土外で世界初の死亡例 | |
| 2020年3月16日 | ルソン島全域に「強化コミュニティ隔離(ECQ)」。世界最長級の都市封鎖の始まり | |
| 2020年3月25日/9月11日 | Bayanihan to Heal as One Act/Bayanihan to Recover as One Act 署名 | |
| 2021年2月28日/3月1日 | CoronaVac 初回60万回分がビラモール空軍基地(パサイ市)に到着(2月28日)/接種開始(3月1日) | 注(2026-08-26 検証で分離。初稿は「2月28日=接種開始」としていたが、2月28日はワクチン到着日で、接種開始は3月1日。出典:PNA(フィリピン通信社)「China-donated Sinovac vaccines arrive in PH」(2021年2月28日)/「Actual inoculation slated Mar. 1 after Sinovac vax arrival」=中国政府寄贈の CoronaVac 60万回分を載せた中国軍機が2月28日16時過ぎにビラモール空軍基地へ着陸、ドゥテルテ大統領が引渡し式に立会い。ワクチン担当相ガルベスが「実際の接種は3月1日(月)に開始」と表明。うち10万回分は中国人民解放軍からフィリピン国軍への寄贈。寄贈分100万回は2月28日に60万・3月24日に40万の2便、政府調達分100万回は3月29日着(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を PNA に差し替え。注pna.gov.ph は Cloudflare により直接取得できず、検索インデックス経由で本文を確認) |
| 2021年12月16日 | 台風「Odette(Rai)」がビサヤ・ミンダナオ北部を直撃 | (2026-08-26 再検証で日付を追記。分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§1-6の「2021年12月16日」と統一)注死者数は本稿では原典未確認(同資料は「数百人死亡」と記す) |
| 2022年5月9日 | フェルディナンド・"ボンボン"・マルコス・ジュニアが大統領選に、サラ・ドゥテルテが副大統領選に圧勝 | |
| — | COVID-19 累計:確定症例 4,173,631件、死者 66,864人(2026年8月5日時点) | 注出典:注 一次資料未到達(2026-08-26時点)。数値は残置したが、保健省(DOH)COVID-19 Case Tracker は CAPTCHA、WHO COVID-19 ダッシュボード(data.who.int)は動的描画のため、いずれも本工程で数値を確認できなかった。引用する際は必ず DOH Case Tracker または WHO ダッシュボードで取得日を添えて再確認すること。注2023年7月22日に公衆衛生上の緊急事態宣言が解除され、WHO Philippines の状況報告も2023年12月20日を最後に更新停止しているため、以後の累計はほとんど動いていない |
12. マルコス・ジュニア期 ①(2022〜2024)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 2022年6月30日 | マルコス・ジュニア、第17代大統領に就任 | |
| 2022年7月25日 | 第1回施政方針演説(SONA) | |
| 2022年10月7日 | 麻薬対策を「BIDA」(更生・社会経済開発重視)へ転換 | |
| 2023年1月10日 | 最高裁が中比越の共同海洋地震探査(JMSU)協定を違憲と判断 | |
| 2023年2月2日/4月3日 | EDCA(防衛協力強化協定)の対象基地を4か所追加(計9か所)と発表(2月2日、オースティン米国防長官訪比時)/追加4か所の所在地を公表(4月3日) | 注(2026-08-26 検証で修正。初稿の「2月1日」は誤り。分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§2の「2月2日」と統一。出典:PNA(フィリピン通信社)「Malacañang names 4 more EDCA sites」(2023年4月3日)/大統領府広報室(PCO)発表=追加4か所は①カガヤン州サンタアナの海軍基地カミロ・オシアス(Naval Base Camilo Osias)②カガヤン州ラロ空港(Lal-lo Airport)③イサベラ州ガムのメルチョール・デラクルス駐屯地(Camp Melchor Dela Cruz)④パラワン州バラバック島。既存5か所は Basa 空軍基地(パンパンガ)、マグサイサイ駐屯地(ヌエバエシハ)、ルンビア空港(カガヤン・デ・オロ)、アントニオ・バウティスタ空軍基地(プエルトプリンセサ)、ベニト・エブエン空軍基地(セブ)(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を PNA/PCO に差し替え。注pna.gov.ph は Cloudflare により直接取得できず、検索インデックス経由で本文を確認)対中抑止の要。台湾に近いルソン北部3か所+パラワン1か所 |
| 2023年2月6日 | 中国海警船がアユンギン礁付近で比沿岸警備隊船にレーザー照射 | |
| 2023年2月28日 | タンカーMT Princess Empress がオリエンタル・ミンドロ州ナウハン沖で沈没。被害額108億ペソ | |
| 2023年3月4日 | ネグロス・オリエンタル州知事ロエル・デガモら10人が自宅で殺害 | |
| 2023年3月29日 | 旅客船MV Lady Mary Joy 3 火災(バシラン沖)。死者33人 | |
| 2023年7月7日 | 新農地解放法。50万人超の農民の農地債務575.6億ペソを帳消し | |
| 2023年7月21/22日 | COVID-19の公衆衛生緊急事態宣言を解除 | 注解除日を7月21日とする資料と7月22日とする資料がある |
| 2023年7月24日 | 第2回SONA | |
| 2023年7月26〜27日 | 台風「Egay(Doksuri)」。死者30人以上、被害153億ペソ | |
| 2023年8月16日 | 下院が全会一致でテベス議員を除名(憲政史上初) | |
| 2023年9月1日 | コメの小売価格上限(1kg 41〜45ペソ)を導入 | |
| 2023年11月4日 | 岸田文雄首相が日本の首脳として初めて比国会で演説 | |
| 2023年11月17日 | 比米が原子力協力(123協定)に署名/同日、ダバオ・SOCCSKSARGEN で地震、死者9人以上 | |
| 2023年11月24日 | CPP-NPA-NDF等の反乱グループ構成員に恩赦 | |
| 2023年12月5日 | アンティケ州ハムティックでバス転落。死者19人 | |
| 2024年2月6日 | ダバオ・デ・オロ州マコ(Maco)の地滑り。死者98人・負傷32人 | |
| 2024年3月5日/3月23日 | アユンギン礁で比船と中国海警船が衝突/民間船に放水砲 | |
| 2024年4月11日 | 比米日 初の3か国首脳会議(ワシントン) | |
| 2024年4月12日 | ドゥテルテ前大統領が習近平との南シナ海「紳士協定」の存在を認める | |
| 2024年5月20日 | スビリ上院議長が辞任、エスクデロが後任に | |
| 2024年6月3〜4日 | カンラオン山噴火。カンラオン市・ラ・カステリャーナで災害事態宣言 | |
| 2024年6月15日 | 比国が南シナ海の大陸棚延伸を国連に申請 | |
| 2024年6月17日 | アユンギン礁で中国海警による乗り込み・押収事案 | |
| 2024年7月4日 | 比米「123協定(民生用原子力協力)」発効 | |
| 2024年7月8日 | 日比「部隊間協力円滑化協定(RAA)」署名(日本外務省) | |
| 2024年6月19日 辞任表明/7月19日 発効 | サラ・ドゥテルテ副大統領が教育長官を辞任(内閣離脱)。7月18日にソニー・アンガラ上院議員へ引継ぎ | 注(2026-08-26 検証で修正。初稿は「7月19日」のみで、分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§2の「6月19日」と食い違っていた。出典:PNA「VP Sara resigns as DepEd chief」(2024年6月19日)/「VP Sara resignation effective July 19; no DepEd OIC yet – Palace」/「VP Sara turns over DepEd helm to Angara」(7月18日)/大統領府広報室(PCO)「PBBM to appoint Sen. Angara as new Education Secretary」「PBBM officially welcomes DepEd Secretary Angara to the Cabinet」=6月19日14時21分にマラカニアン宮で閣僚・教育長官・NTF-ELCAC副議長の辞表を提出(「撤回不能」と表明、30日前予告で7月19日発効)、7月18日に教育省本部(パシッグ市)で引継ぎ式、7月19日夜にマルコス大統領がアンガラに宣誓を行わせた。教育省では他に次官ミカエル・ポア(報道官)ら5名が7月19日付で辞任(2026-08-26 出典衛生工程で Wikipedia 出典を PNA/PCO に差し替え。注pna.gov.ph・pco.gov.ph は直接取得できず、検索インデックス経由で本文を確認)マルコス=ドゥテルテ同盟の決裂が可視化 |
| 2024年7月22日 | 第3回SONA でPOGO(オフショア賭博)の全面禁止を宣言 | |
| 2024年7月24〜29日 | 台風「Carina(Gaemi)」+モンスーン。全国で39人死亡 | |
| 2024年10月24日 0時30分 | 台風「Kristine(Trami)」がイサベラ州ディビラカンに上陸。死者162人(2024年12月5日時点、NDRRMC)、被害184億ペソ | |
| 2024年11月5日 | 大統領令74号で全国のPOGO/IGL を即時禁止 | |
| 2024年12月31日 | POGO 事業停止の最終期限。PAGCOR 発行ライセンスは全て失効 |
13. マルコス・ジュニア期 ②(2025年)
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 2025年1月3日 | 大統領令81号で国家安全保障会議を改組。副大統領と元大統領をメンバーから除外 | |
| 2025年1月13日 | 最高裁が「泡沫候補(nuisance candidate)」認定方針を無効化 | |
| 2025年2月3日 | 農業長官が「コメ安全保障の緊急事態」を宣言 | |
| 2025年2月5日 | サラ・ドゥテルテ副大統領、下院で弾劾訴追(賛成215票)=憲政史上初の副大統領弾劾 | |
| 2025年2月6日 | 米国防総省機がマギンダナオ・デル・スールで墜落、4人死亡 | |
| 2025年2月21日 | FATF(金融活動作業部会)のグレーリストから除外 | |
| 2025年2月25日 | NBIがマラカニアン周辺で監視活動をしていた中国籍者を逮捕 | |
| 2025年3月4日 | FA-50PH がミンダナオのカラトゥンガン山に墜落、搭乗員2人死亡 | |
| 2025年3月11日 | ロドリゴ・ドゥテルテ前大統領、ICC(国際刑事裁判所)の逮捕状によりマニラ空港で逮捕・オランダへ移送 | 存命の元国家元首がICCに引き渡された稀有な例 |
| 2025年4月10日 | NEDAを「経済計画開発省(DEPDev)」に改組 | |
| 2025年4月24日 | デジタルノマド査証を認める大統領令/PHIVOLCS近代化法 | |
| 2025年4月27日 | 中国海警がサンディ・ケイ(Sand Cay)を占拠したと報道 | 注中国側の主張と比政府の説明が食い違う |
| 2025年4月30日 | 比・ニュージーランド訪問部隊地位協定(SOVFA)署名 | |
| 2025年5月1日 | SCTEx料金所で多重衝突、10人以上死亡 | |
| 2025年5月12日 | 中間選挙。上院はAlyansa 6議席、DuterTen 3議席+ゲスト2、KiBam 2議席、NP 1議席。ボン・ゴーが最多得票(27,121,073票) | 注投票率は2系統が流通し、確定していない:81.65%(COMELEC 発表、GMA 2025年5月15日)と 82.20%=「中間選挙として史上最高」(Rappler 2025年5月15日/5,735万票・有権者6,967万人)。(2026-08-26 検証で併記化。初稿は82.20%と最上級表現のみを断定していたが、分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§3・§5-4は2系統を併記していた。)「史上最高」の指標は「中間選挙(大統領選のない年)の投票率」であり、大統領選年を含めた全選挙での最高ではない。与党Alyansaの「圧勝シナリオ」が崩れ、政権の求心力低下が明確化。下院はLakas-CMDが317議席中103議席 |
| 2025年6月10日 | EUが「高リスク国」リストから比国を除外 | |
| 2025年6月13日/6月27日 | マリア・レッサが反ダミー法違反で無罪/レイラ・デ・リマが無罪、アリス・グオが中国籍と認定 | |
| 2025年7月16日 | 2024年国勢調査の確定人口を 112,700,000人(1億1,270万人) と公表 | 人口の桁を語るときはこの2024年センサス値を使うこと。注「1億900万人(2020年センサス)」を今も使う資料が多い |
| 2025年7月22日(注23日とする資料あり) | 比米通商合意。米側の関税率19%で決着 | 注(2026-08-26 検証で併記化。分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§5-8は「2025年7月22日合意」と記しており、本稿の「7月23日」と1日ずれていた。マルコス大統領のホワイトハウス訪問・トランプ大統領の発表は現地時間7月22日、比国内の報道日付は7月23日。時差由来のずれと考えられるが原典未確認)注2026年7月24日には12.5%へ変更(後述)。年次で数字が変わるので注意 |
| 2025年7月25日 | 最高裁がドゥテルテ副大統領の弾劾手続きを差し止め | |
| 2025年7月28日 | 第4回SONA。洪水対策事業(flood control)をめぐる大規模汚職を大統領自ら告発 | 2025〜2026年の政局を規定した一件 |
| 2025年8月6日 | 上院が弾劾訴追状を「archive(保留)」に | |
| 2025年8月11日 | スカボロー礁で中国海警船が損傷する事案 | |
| 2025年8月13日 | バランガイ役職の任期を4年に | |
| 2025年9月1日/9月17日 | 治水汚職の人事的帰結:DPWH(公共事業道路省)長官マヌエル・ボノアンが辞任し運輸長官ヴィンス・ディゾンが後任に(9月1日)/下院議長マーティン・ロムアルデスが辞任し、ファウスティノ・「ボジー」・ダイ3世(イサベラ州)が253票で新議長に(9月17日) | (2026-08-26 再検証で追加。本稿はこの2件を落としており、分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§3・§5-6にのみ記載されていた。出典:PNA 2025-09-01/Rappler・Philstar 2025-09-17)以後「下院議長=ロムアルデス」と書くのは誤り |
| 2025年9月3日 | 投資家借地法改正。最長99年の借地を許容 | |
| 2025年9月4日 | 金属鉱業に対する新財政制度法(Enhanced Fiscal Regime for Metallic Mining Act) | |
| 2025年9月11日 | 日比RAA(部隊間協力円滑化協定)発効(日本外務省) | 日本にとって英豪に続く枠組み |
| 2025年9月11日 | 独立インフラ委員会(Independent Commission for Infrastructure, ICI)設置。過去10年のインフラ汚職を調査 | |
| 2025年9月21日 | 「Trillion Peso March」=洪水対策汚職に対する全国的抗議。2人死亡・205人負傷の暴動を伴う | 戒厳令記念日(9月21日)に合わせた動員 |
| 2025年9月24日 | 公海条約(BBNJ)に加入 | |
| 2025年9月26日 | 原子力安全法(Nuclear Energy Safety Act)署名 | |
| 2025年9月30日 21時59分43秒 | セブ地震(Mw6.9、ボゴ市の N70°E 約19km 沖・11.10°N 124.14°E・深さ5km、震源断層=ボゴ湾断層)。死者79人・負傷559人・インフラ被害7億3,334万ペソ(NDRRMC) 注(2026-08-26 修正。旧記載「ダアンバンタヤン東方沖12km」「負傷599人」はいずれも誤り。出典:PHIVOLCS primer/NDRRMC 2025-10-17 6時報告) | PHIVOLCS/NDRRMC |
| 2025年10月10日 | ダバオ・オリエンタル地震(Mw7.4+Mw6.7〜6.8のダブレット)。死者10人・負傷176人(2025年10月24日時点、NDRRMC 状況報告13号) | 注M7.4という規模の割に死者が少なかったのは震源が沖合だったため |
| 2025年10月23日 | 共和国法12312号署名。POGO を法律で全面違法化 | |
| 2025年11月4〜5日 | 台風「Tino(Kalmaegi)」が南レイテ→セブ→ネグロス→ギマラス→イロイロ→パラワンと連続上陸。死者269人以上・負傷523人・行方不明113人(うちセブ州で150人以上)、被害32.6億ペソ(NDRRMC/農業省) | セブ市の都市型洪水が「ごみ・排水路管理の失敗」として国内外で問題化 |
| 2025年11月9日 21時10分 | スーパー台風「Uwan(Fung-wong)」がアウロラ州ディナルンガンに上陸。最大風速185km/h・最大瞬間230km/h(PAGASA)、JTWC は1分平均215km/h と評価。死者33人以上、被害49.2億ペソ | 注Tino の1週間後という連続被災 |
| 2025年11月 | ICI が「1,200人が訴追対象になり得る」と表明(Philstar 報道) | 注これはICIの見通しであり確定した起訴人数ではない |
| 2025年通年 | 実質GDP成長率 4.4%(2026年1月30日発表、BusinessWorld)=5年ぶりの低さ |
14. 2026年(1月〜8月26日)
注 2026年は「汚職・司法・災害・地政学」が同時進行した年であり、月単位で状況が動いている。以下は2026年8月26日時点の整理。
14.1 政治・司法
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 2026年1月5日 | 2026年度一般歳出法(GAA)署名 | |
| 2026年1月22日 | ジャーナリスト、フレンチー・メイ・クンピオがテロ資金供与で有罪判決 | 報道の自由をめぐり国際的批判 |
| 2026年1月28日 | 最高裁が「サラ・ドゥテルテ副大統領の(第1次)弾劾は違憲」との判断を確定 | |
| 2026年2月2日〜2月18日 | 副大統領に対する弾劾訴状が4件提出(2日に2件、9日に3件目、18日に4件目)/4日に一部却下 | |
| 2026年2月13日 | ICC が麻薬戦争事件で8名を「間接共同正犯(indirect co-perpetrators)」と特定 | |
| 2026年3月19日/3月26〜27日/4月15〜17日/4月21〜23日/7月22〜24日 | 燃料価格高騰に対する全国交通ストが断続的に発生 | 2026年の物価高を象徴する社会現象 |
| 2026年3月24日 | 大統領令により国家エネルギー緊急事態(national energy emergency)を宣言 | |
| 2026年3月25日 | 燃料税(excise tax)停止とバンサモロ議会選挙に関する共和国法を署名 | |
| 2026年3月26日 | 仏比訪問部隊地位協定(VFA)署名=欧州国として初 | |
| 2026年3月26〜27日 | 大統領令でカラヤーン諸島群の131の地形にフィリピン名を付与 | 対中主権主張の実務的手段 |
| 2026年3月31日 | ICI(独立インフラ委員会)が約6か月で活動終了。大統領府は「調査は継続」と説明 | 注委員の辞任や政治化批判があり、実効性への疑問が残る(Rappler/Philstar) |
| 2026年4月16日 | 米国主導の「Pax Silica」構想に比国が参加 | |
| 2026年4月22〜23日 | ICC上訴部が管轄権を確認(22日)。ICC第一予審裁判部がドゥテルテに対する全訴因を確認し、公判に付す決定(23日) | |
| 2026年5月11日 | サラ・ドゥテルテ副大統領、2度目の弾劾訴追 | |
| 2026年5月11〜14日 | 上院でロナルド・デラロサ上院議員に対するICC逮捕状執行をめぐる膠着(standoff) | ICCと国内政治の衝突が可視化 |
| 2026年5月18日/7月6日 | 上院が弾劾裁判所として招集(5/18)/弾劾裁判が正式に開始(7/6) | |
| 2026年5月22日/6月23日 | ICC公判部がドゥテルテの逃亡リスクを理由に勾留継続を決定/第2回ステータス会議(本人欠席) | |
| 2026年6月1日/6月16日 | ジンゴイ・エストラーダ上院議員が洪水対策汚職で逮捕(6/1)/サンディガンバヤンが90日の予防的職務停止を命令(6/16) | |
| 2026年6月3日 | 国連安保理非常任理事国選挙でキルギスに敗北 | |
| 2026年6月11日 | 中国がヒルベルト・テオドロ国防相に制裁と入国禁止 | 注2月10日にはカラヤーン町議会メンバーにも入国禁止 |
| 2026年6月3日/6月中旬(6月17日とも 注) | カエターノ上院議長が「ソリッド・ブロック12」により解任され、シャーウィン・ガチャリアンが議長代行に(6月3日)/その後正式に上院議長に選出(6月中旬。指導部空白は28日間) | 注(2026-08-26 検証で併記化。本稿の「6月17日選出」と分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§4-2の「6月3日議長代行→6月中旬正式選出・空白28日間」が食い違い、正式選出日を確定できなかった。2026年の上院議長はソット→カエターノ(5月11日)→ガチャリアン(6月〜)の3人交代である点は両資料で一致) |
| 2026年7月6日 | ロダンテ・マルコレタ上院議員ら4人が横領(plunder)で逮捕 | |
| 2026年7月24日 | ジャネット・リム=ナポレスが公金横領で有罪/米国が比国産品への関税を12.5% に設定 | 注2025年7月の19%から変更。年ごとに数字が動く |
| 2026年7月27日 | 第5回SONA。マルコス大統領が「任期最終盤に改革をやり切る」と表明。ロムアルデス「前」下院議長に関する訴追の継続にも言及 | 注(2026-08-26 再検証で修正。初稿は「ロムアルデス下院議長」と現職のように書いていたが、マーティン・ロムアルデスは2025年9月17日に下院議長を辞任し、ファウスティノ・「ボジー」・ダイ3世が後任。分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§3・§6と統一) |
| 2026年8月6日 | 最高裁が「弾劾裁判の進行は上院の専権」と判断(Inquirer) | |
| 2026年8月18日 | 大統領令123号で貧困対策関連機関を再編 | |
| 2026年8月(進行中) | サラ・ドゥテルテ弾劾裁判は2026年8月25日時点で審理中・評決なし。8月19日は豪雨予報で公判が中止。有罪には上院24人中16票が必要 | 注世論調査では「公正な裁判か疑わしい」81%(OCTA、2026年6月18日)と、司法プロセスへの不信が高い |
| 2026年8月24日 | 重要鉱物に関する大統領令を発出(Pax Silica 関連、Inquirer) |
14.2 災害・事故
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 2026年1月6日/1月20日/5月5日 | マヨン山が噴火しPHIVOLCSが警戒レベル3/アルバイ州タバコ市に災害事態宣言/火砕流によりアルバイ州の複数市町に災害事態宣言 | |
| 2026年1月8日 | セブ市ビナリウ(Binaliw)の埋立処分場が崩落し36人死亡 | 2025年11月のセブ大洪水に続き「廃棄物管理の失敗」が人命被害に直結した事例 |
| 2026年1月26日 | フェリー M/V Trisha Kerstin 3 沈没。少なくとも66人死亡 | |
| 2026年2月6日/2月9日 | 熱帯低気圧「Penha」によりイリガン市、スリガオ・デル・スールに災害事態宣言 | |
| 2026年2月17〜18日 | ミンダナオ広域で27時間の停電 | 3月の国家エネルギー緊急事態宣言につながる |
| 2026年3月10日/3月23日 | 干ばつによりイサベラ州、ソルソゴン州に災害事態宣言 | エルニーニョ影響 |
| 2026年4月10日〜5月10日 | ナボタス衛生埋立処分場で火災。区域の約9割に延焼。5月10日鎮火 | |
| 2026年5月24日 | アンヘレス市で9階建てビル倒壊、30人死亡 | |
| 2026年6月8日 | ミンダナオ地震(M7.8、サランガニ沖)。死者は暫定55人→46人に下方修正→78人(6月18〜19日)→最終的に81〜88人。被災者150万人。余震は6,100〜8,300回超(Inquirer/ReliefWeb) | 注死者数が「上方修正→下方修正→再上方修正」と大きく揺れた。古い数字(15人、55人など)が今も流通しているので注意 |
| 2026年6月22日/8月18日 | タクロバンの学校で銃乱射、生徒3人死亡(未成年容疑者2人逮捕)/サンボアンガのアテネオ中等部で銃乱射、生徒2人死亡 | 2026年の新しい社会問題。8月の事件はライブ配信され国際報道された(The Guardian, Al Jazeera) |
| 2026年7月4〜13日 | 台風「Inday(Bavi)」/ラナオ・デル・スールで地滑り7人死亡 | 注(2026-08-26 検証で併記化)死者数が割れる:23人(本稿初稿、7月11日時点)と 20人・被災65.4万人(BusinessWorld 2026年7月13日/分野内資料「年表・2016〜2026の10年」§5-3)。台風災害の死者は集計主体(NDRRMC/OCD/地方自治体)と時点で動くため、必ず「◯月◯日時点・◯◯集計」を添えること |
| 2026年8月10〜24日 | 南西モンスーン(habagat)+熱帯低気圧「Luis」「Maymay」「Kujiri」「Dolphin」の連続襲来。ルソン各地で災害事態宣言。8月16日時点で23人死亡(OCD)、8月24日までに29人 | 注死者数は集計時点で異なる。必ず「何月何日時点」を添えること |
| 2026年8月23日 | PAGASA が「3つの熱帯低気圧が同時に比国周辺に存在」と発表(Philstar) | |
| 2026年8月25日 | 台風「SAUDEL」をPAR外で監視中(PAGASA) |
14.3 経済・外交・社会
| 年月日 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 2026年1月13日 | 比・UAE 包括的経済連携協定(CEPA)署名 | |
| 2026年1月15日 | 日比が防衛・インフラ関連の二国間協定に署名(うち日比ACSA=物品役務相互提供協定) | |
| 2026年1月16日 | AI「Grok」が全国でブロック | |
| 2026年1月19日 | マランパヤ East-1 鉱区で大規模ガス埋蔵を発見 | エネルギー安全保障上の最重要ニュース。マランパヤ枯渇問題の緩和材料 |
| 2026年1月26〜30日 | ASEAN議長国関連会合をメトロセブで開催 | 2026年はフィリピンがASEAN議長国 |
| 2026年5月6〜8日 | 第48回ASEAN首脳会議(ラプラプ市)。「セブ議定書(Cebu Protocol)」に署名 | |
| 2026年3月13日 | セブBRT(バス高速輸送システム)運行開始 | |
| 2026年6月8日 | 2026学年度が「3学期制」で開始 | 注2025年6月16日に旧暦通りの学年暦へ戻したばかりで、制度が短期間で二転している |
| 2026年7月1日 | 世界銀行が比国を「高位中所得国(upper middle income)」に分類 | 注具体的なGNI/人の数値と閾値は本稿では原典未確認。World Bank「2026-2027 Country Income Classifications」参照のこと |
| 2026年7月2日 | カナダとの関係を「戦略的パートナーシップ」へ格上げ(カーニー首相訪比) | |
| 2026年7月14日 | メラルコの Terra Solar プロジェクト(ヌエバ・エシハ)稼働 | 大規模太陽光+蓄電 |
| 2026年7月19〜24日 | ASEAN外相会議関連会合(メトロマニラ) | |
| 2026年8月12日 | 上院がカナダ・ニュージーランドとのSOVFA(訪問部隊地位協定)を批准 | |
| 2026年8月22日 | 日比ACSA(物品役務相互提供協定)発効 | RAA(2025年9月11日発効)に続く。日比防衛協力が「協定2本立て」の段階に入った |
| 2026年8月(進行中) | 「Pax Silica」の性格をめぐる論争。DTIは「AIデータセンターではなく先端製造業が中心」と説明(ABS-CBN, 8/25)。BCDAの主張への反論(Rappler, 8/5)、先住民族の反対(Nikkei Asia, 8/21)、環境・科学面の再検証要求(Asia News Network, 8/12) | 注「比国がAIハブになる」という単純化した報道が流通中。政府自身が定義を修正している段階であり、断定を避けること |
| 2026年8月 | 麻薬戦争被害者が「真実委員会(truth commission)」による救済を求める動き(Al Jazeera, 8/14) | |
| 2026年9月14日(予定) | BARMM 初の議会選挙(大統領布告1395号で特別非就業日、共和国法12317号)。選挙運動期間は7月30日〜9月12日 | 注当初2022年→2025年5月→2026年3月30日→9月14日と4回以上延期されている。「2025年に実施済み」と誤記した資料が多い |
14.4 2025〜2026年の主要マクロ数値
| 指標 | 数値 | 時点・出典 |
|---|---|---|
| 実質GDP成長率(2025年通年) | 4.4%(5年ぶりの低さ) | 2026年1月30日発表、BusinessWorld |
| 実質GDP成長率(2026年Q1) | 2.8%(コロナ後の最低) | 2026年5月7日発表、Inquirer/GMA |
| 実質GDP成長率(2026年Q2) | 2.3%(コロナ後の新たな最低) | 2026年8月7日発表、GMA/Manila Bulletin/BusinessWorld |
| インフレ率(2026年3月) | 4.1% | PSA |
| インフレ率(2026年4月) | 7.2% | 2026年5月4日発表、PSA |
| インフレ率(2026年6月) | 6.4%(燃料・食品が沈静化) | 2026年7月7日発表、Rappler/ABS-CBN |
| インフレ率(2026年7月) | 6.2%(交通費の下落が寄与) | 2026年8月5日発表、Daily Tribune/SunStar |
| 人口(2024年国勢調査確定値) | 112,700,000人 | 2025年7月16日公表 |
| 2027年度予算案 | 約1,180億米ドル | 2026年8月、Reuters |
| 洪水対策予算 | 5,870億ペソ → 1兆2,000億ペソへ倍増 | 2026年8月、The Manila Times |
| 世界銀行 所得分類 | 高位中所得国(upper middle income) | 2026年7月1日 |
注2026年は「成長減速+高インフレ」の同時進行。2024年までの「アジア有数の高成長国」というフレーズをそのまま使うと2026年時点では誤りになる。
15. 憲法・国家体制の変遷
| 憲法 | 主要日付 | 運用期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| マロロス憲法 | 公布 1899年1月21日(宣言は1月20日とも注) | 1899年1月23日〜1901年3月23日 | 第一共和国 |
| 1935年憲法 | 国民投票 1935年5月14日/批准確定 1935年11月15日(賛成96.43%) | 1935〜1943/1945〜1973 | コモンウェルス〜第三共和国 |
| 1943年憲法 | KALIBAPI が1943年9月7日に批准 | 1943年10月14日〜1945年8月17日 | 第二共和国(日本占領下) |
| 1973年憲法 | 国民投票 1973年1月17日(賛成95.27%) | 1973〜1986 | 注「市民集会」方式の合憲性が争われた |
| 自由憲法 | 布告3号 1986年3月25日 | 1986〜1987 | 暫定 |
| 1987年憲法 | 国民投票・施行 1987年2月2日(批准布告は2月11日注) | 1987年〜現在 | 大統領は6年1期・再選禁止 |
16. 「年代が割れる」項目 早見表 注
| 項目 | 説A | 説B | 実務上の扱い |
|---|---|---|---|
| マゼランの上陸 | 1521年3月16日(諸島視認) | 1521年3月17日(ホモンホン上陸) | 「1521年3月16〜17日」と幅で書く |
| 最初のミサの場所 | リマサワ(政府公式・NHCP 2020年8月19日再確認、RA2733/1960年6月19日) | マサオ/ブトゥアン | 政府公式はリマサワ。ただし論争継続と明記 |
| ガレオン貿易の開始 | 1565年(復路航路発見) | 1571/1573年(マニラ発の初便) | 「1565年頃〜1815年」 |
| 革命開始「叫び」の日 | 8月23日(政府公式、1963年マカパガル) | 8月24日/25日/26日 | 公式は8月23日。ただし26日説も根強い |
| 革命開始「叫び」の場所 | プガドラウィン(公式) | バリンタワク/バハイ・トロ/カンコン | 公式はプガドラウィン |
| 『ノリ・メ・タンヘレ』刊行 | 1887年(ベルリン、印刷完了3月) | 1886年 | 1887年を主、1886年併記 |
| パリ条約 | 1898年12月10日 署名 | 1899年(=発効 4月11日、米上院批准 2月6日と混同) | 「署名1898年12月10日/発効1899年4月11日」 |
| 独立記念日 | 1898年6月12日(現行、RA4166/1964年) | 1946年7月4日(1962年まで公式) | 両方併記が安全 |
| 米比戦争の終結 | 1902年7月4日(米国の公式宣言) | 1913年6月15日(バッド・バグサック=モロ反乱終息) | 「公式終結1902年、実際の抵抗は1913年まで」 |
| 戒厳令 | 1972年9月21日(布告署名日) | 1972年9月23日(テレビ発表日) | 記念日は9月21日 |
| 日比賠償協定 | 1956年5月9日 署名 | 1956年7月23日 発効 | 必ずどちらか明示 |
| 1987年憲法の成立 | 1987年2月2日(国民投票・施行) | 1987年2月11日(批准布告) | 施行日は2月2日 |
| 2026年ミンダナオ地震死者 | 46人/55人/78人 | 81〜88人(最終) | 「◯月◯日時点」を必ず付す |
| BARMM初の議会選挙 | 2025年5月/2026年3月30日(いずれも延期) | 2026年9月14日(現行予定) | 「4回以上延期」と明記 |
| レガスピの1565年(2026-08-26 再検証で全面訂正) | 2月13日=セブ沖に投錨したが上陸できず/2月22日=サマール到達(ダトゥ・ウラオと血盟)/3月16日=ボホール(シカトゥナ) | 4月27日=セブ上陸・トゥパス制圧/5月8日=植民市建設/6月4日=セブ条約 | 「2月13日にセブ到着」も「2月13日にサマール到達」も誤り。分野内資料「スペイン植民地期」§1と統一 |
| マニラ陥落(英国占領)(同) | 1762年10月6日(分野内「スペイン植民地期」§7=サン・ディエゴ稜堡突破) | 1762年10月5日(アンダのフォート・サンティアゴ脱出日と混同) | 幅で書くなら「10月5〜6日」。注英艦隊のマニラ湾進入日は9月22日/23日/24日の3説(ドレイパー日誌は23日、マニラ側への急報は22日、分野内資料は24日)。一次資料未到達(2026-08-26時点) |
| タバコ専売の終期(2026-08-26 再検証で追加) | 1880年(米議会図書館 Country Studies/分野内「スペイン植民地期」) | 1882年(分野内「通史」§2.3) | どちらか一方だけを書かない。導入は1782年3月1日 |
| ボーレン=セラーノによる基地租借短縮(同) | 1959年(比国内で流通。官報「Third Republic」もガルシア政権の功績として記載) | 1966年の改定(マルコス大統領の1979年1月15日 Batasang Pambansa 報告=比国官報所収が「1966年に25年へ短縮」と明言) | 年が割れる。25年起算で1991年満了は共通 |
| バターン死の行進の死者(2026-08-26 出典衛生工程で書き換え) | 米陸軍公式(army.mil)=行進中は比人 約2,500人・米人 約500人/オドンネル収容所で比人 約26,000人・米人 約1,500人 | 5,000〜18,000人/7,000〜10,000人(いずれも行進中と収容所での死を分離していない要約値) | 「行進中」か「収容所を含むか」の指標を必ず明示すること |
| 2009年 Ondoy の死者(2026-08-26 出典衛生工程で説A/説Bを入れ替え) | 464人(NDCC SitRep No.48/2009年11月12日=死者464・負傷529・不明37。これが NDCC の最終系集計) | 671人(うちメトロマニラ448人。間接死を含むとされるが合算根拠の一次資料に到達できず)/246人(速報段階) | 「◯月◯日時点・◯◯集計」を必ず付す。注同時期の台風 Pepeng(死者465人)と足し合わせた数字と混同しないこと |
| 2013年 ボホール地震の死者(同) | 222人(NDRRMC SitRep No.35/2013年11月3日=死者222・負傷796・不明8) | 144人(発災直後の速報)/190人(10月21日)/195人(10月23日) | 確定値は222人。注「負傷976人」は「796人」の誤り(2026-08-26 出典衛生工程で判明) |
| 英軍の撤収(同) | 1764年4月第1週(乗船・撤収) | 1764年6月11日(最後の艦船退去) | 必ずどちらか明示 |
| タバコ専売の開始(同) | 1782年(分野内資料「通史」と一致) | 1781年 | 1782年を採る |
| モロ湾地震の日付(同) | 1976年8月17日(現地時間 0:11) | 1976年8月16日(UTC 16:11) | 現地日付は8月17日 |
| モロ湾地震の死者(同) | 4,791人(PHIVOLCS 掲載の Badillo & Astilla 集計=第9地域1,440+第12地域3,351。注NDCC集計ではない) | 5,000〜8,000人(USGS)/8,000人超(NOAA、死者+行方不明) | 両論併記 |
| マグサイサイ機の搭乗者(2026-08-26 出典衛生工程で3説に拡張) | 27人中26人死亡(墜落地の碑文。Cebu Daily News) | 26人中25人死亡/25人中24人死亡 | 生存者1人(記者ネストル・マタ)は全説一致 |
| 1976年 モロ湾地震のマグニチュード(同) | Mw8.1(PHIVOLCS の見出し表記) | Mw8.0/M7.9(PHIVOLCS 別ページ・USGS の MS) | PHIVOLCS 内部でも表記が揺れる。指標(Mw/MS/mb)を添えること |
| マラウィ攻囲戦の武装勢力死者(同) | 974人(ロレンザーナ国防相 2017年10月23日発表) | 978人(本稿初稿。裏付けが取れず) | 974人を採る |
| 朝鮮戦争派兵の人数(同) | 7,420人・戦死112人(在韓比大使館の公式広報) | 約7,500人(キリノ大統領が議会承認を得た派兵枠の数字) | 実派遣数と承認枠を区別すること |
| 2025年 セブ地震の震央(同) | ボゴ市の N70°E 約19km 沖・深さ5km・Mw6.9・ボゴ湾断層(PHIVOLCS 確定値) | 「ダアンバンタヤン東方沖12km」(誤り。要訂正) | PHIVOLCS の primer を典拠にすること |
| マラウィ「解放」(同) | 2017年10月17日(大統領の解放宣言) | 2017年10月23日(軍の戦闘終結宣言) | 2段階として書く |
| COVIDワクチン(同) | 2021年2月28日=到着 | 2021年3月1日=接種開始 | 「2月28日接種開始」は誤り |
| サラ副大統領の教育長官辞任(同) | 2024年6月19日(辞任表明) | 2024年7月19日(発効。引継ぎは7月18日) | 2段階として書く |
| 2025年中間選挙の投票率(同) | 81.65%(COMELEC) | 82.20%(Rappler、「中間選挙として史上最高」) | 2系統併記 |
| 比米関税合意の日付(同) | 2025年7月22日(米側の発表日) | 2025年7月23日(比国内報道日) | 時差由来。幅で書く |
| 2026年上院議長ガチャリアンの正式選出(同) | 2026年6月中旬(空白28日間) | 2026年6月17日 | 確定できず。6月3日に議長代行就任は一致 |
| 2026年台風Inday(Bavi)の死者(同) | 23人(7月11日時点) | 20人(BusinessWorld 2026年7月13日) | 「◯月◯日時点」を必ず付す |
17. 災害クロノロジー(通し・死者数順の参考)
注 死者数はいずれも集計主体と時点により変動する。2026-08-26 の出典衛生工程で、本節が依拠していた Wikipedia の一覧記事を出典から外し、PHIVOLCS・USGS・NOAA・NDRRMC/NDCC の各報告と分野内資料「災害データベース」§に付け替えた。注個々の行のうち一次資料に到達できなかったもの(1867年 Angela、2004年 Winnie、1924年 マティ地震、1871年 ヒボクヒボク、1754年 タール等)は「注 一次資料未到達(2026-08-26時点)」として数値のみ残置している。
台風
| 順 | 台風(現地名/国際名) | 年月日 | 死者 |
|---|---|---|---|
| 1 | Yolanda(Haiyan) | 2013年11月8日 | 6,300人 |
| 2 | Uring(Thelma) | 1991年11月5日 | 5,101〜8,000人 注幅大 |
| 3 | Pablo(Bopha) | 2012年 | 1,901人 |
| 4 | Angela | 1867年 | 約1,800人 |
| 5 | Winnie | 2004年 | 1,593人 |
| 近年 | Tino(Kalmaegi) | 2025年11月4〜5日(比国内8回上陸) | 269人以上(行方不明113人)注別系統で「死者・行方不明327人」(Anadolu 2025年11月7日)、「Kalmaegi+Fung-wong 合計で260人近く」(BusinessWorld 2025年11月12日)も流通 |
| 近年 | Kristine(Trami) | 2024年10月24日 | 162人(2024年12月5日時点、NDRRMC) |
| 近年 | Uwan(Fung-wong) | 2025年11月9日 | 33人以上 |
地震
| 順 | 地震 | 年月日 | M | 死者 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | モロ湾地震・津波 | 1976年8月17日(現地時間。UTCは8月16日) | 8.1(PHIVOLCS表記。注8.0/7.9も併存) | 4,791人(PHIVOLCS掲載 Badillo & Astilla 集計)/5,000〜8,000人(USGS)/8,000人超(NOAA、死者+不明)注幅大 |
| 2 | ルソン島地震 | 1990年7月16日 | 7.8 | 1,621人 |
| 3 | マニラ地震 | 1863年6月3日 | 6.4 | 約1,000人 |
| 4 | ルソン島地震 | 1645年11月30日 | 7.5 | 600〜3,000人 注幅大 |
| 5 | マティ地震 | 1924年4月14日 | 8.3 | 約500人 |
| 近年 | セブ地震 | 2025年9月30日 | 6.9 | 79人 |
| 近年 | ボホール地震 | 2013年10月15日 | 7.2 | 222人(不明8・負傷796、NDRRMC SitRep No.35/2013年11月3日)注2026-08-26 出典衛生工程で負傷者数を「976」→796に修正 |
| 近年 | ミンダナオ地震 | 2026年6月8日 | 7.8 | 81〜88人、被災150万人 |
| 近年 | ダバオ・オリエンタル地震 | 2025年10月10日 | 7.4 | 10人 |
火山
| 火山 | 年月日 | 概要 |
|---|---|---|
| マヨン | 1814年2月1日 | カグサワ埋没。犠牲者約1,200人(PHIVOLCS) |
| ヒボクヒボク | 1871年4月30日〜 | 割れ目噴火、溶岩流出が4年継続 |
| ピナトゥボ | 1991年6月15日 | VEI 6、死者847人(USGS。大半が湿った降灰による屋根の崩落)。20世紀2番目の規模の噴火 |
| タール | 1754年5月15日 | 周辺の町が壊滅 |
| マヨン | 2026年1月6日〜5月 | 警戒レベル3、火砕流、アルバイ州に災害事態宣言 |
18. 歴代大統領(第三共和国以降の主要な区切り)
注 「第◯代」の数え方は、第一共和国・第二共和国・コモンウェルスを含めるかで資料により異なる。以下は一般的な通し番号。
| 代 | 大統領 | 在任 | 退任事由 |
|---|---|---|---|
| 1 | エミリオ・アギナルド | 1899〜1901 | 捕縛 |
| 2 | マヌエル・L・ケソン | 1935〜1944 | 亡命先で死去 |
| 3 | ホセ・P・ラウレル | 1943〜1945 | 第二共和国解体 |
| 4 | セルヒオ・オスメニャ | 1944〜1946 | 落選 |
| 5 | マヌエル・ロハス | 1946〜1948 | 在任中死去(1948年4月15日) |
| 6 | エルピディオ・キリノ | 1948〜1953 | 落選 |
| 7 | ラモン・マグサイサイ | 1953〜1957 | 航空機事故死(1957年3月17日) |
| 8 | カルロス・P・ガルシア | 1957〜1961 | 落選 |
| 9 | ディオスダド・マカパガル | 1961〜1965 | 落選 |
| 10 | フェルディナンド・E・マルコス | 1965〜1986 | EDSA革命で失脚 |
| 11 | コラソン・C・アキノ | 1986〜1992 | 任期満了 |
| 12 | フィデル・V・ラモス | 1992〜1998 | 任期満了 |
| 13 | ジョセフ・エストラーダ | 1998〜2001 | EDSA IIで退任 |
| 14 | グロリア・マカパガル=アロヨ | 2001〜2010 | 任期満了 |
| 15 | ベニグノ・S・アキノ3世 | 2010〜2016 | 任期満了 |
| 16 | ロドリゴ・R・ドゥテルテ | 2016〜2022 | 任期満了。2025年3月11日ICC逮捕、2026年4月23日に全訴因が確認され公判へ |
| 17 | フェルディナンド・R・マルコス・ジュニア | 2022〜(2028年6月30日まで) | 現職 |
19. これから(2026年後半〜)の確定・予定イベント
| 予定日 | 内容 |
|---|---|
| 2026年9月14日 | BARMM 初の議会選挙(campaign period 7月30日〜9月12日) |
| 2026年後半 | サラ・ドゥテルテ副大統領の弾劾裁判(有罪には上院24人中16票) |
| 2026年後半 | ドゥテルテ元大統領のICC公判手続き(公判開始予定は検察側見解で2026年11月30日 注変更の可能性大) |
| 2026年通年 | フィリピンがASEAN議長国(5月6〜8日 第48回首脳会議は実施済み) |
| 2028年5月 | 次期大統領・副大統領選挙 |
D. 検証しても誤りが見つからなかった主要項目(参考)
ラグナ銅板碑文の日付(900年4月21日ユリウス暦)と発見年(1987年)/マクタンの戦い(1521年4月27日)/ゴンブルサ処刑(1872年2月17日)/カティプナン結成(1892年7月7日)/リサール処刑(1896年12月30日)/マニラ湾海戦(1898年5月1日)/パリ条約(署名1898年12月10日・米上院批准1899年2月6日・発効1899年4月11日)/米比戦争勃発(1899年2月4日)/コモンウェルス発足(1935年11月15日)/バターン陥落(1942年4月9日)/第二共和国(1943年10月14日)/マニラの戦い(1945年2月3日〜3月3日)/布告1081号(1972年9月21日署名・9月23日発表)/布告2045号(1981年1月17日)/ニノイ・アキノ暗殺(1983年8月21日)/スナップ選挙(1986年2月7日)/EDSA(1986年2月22〜25日)/1987年憲法(2月2日国民投票・施行/2月11日批准布告)/ピナトゥボ噴火(1991年6月15日、死者847人)/上院の基地条約否決(1991年9月16日)/南シナ海仲裁判断(2016年7月12日)/マラウィ攻囲戦開始と布告216号(2017年5月23日)/ICC脱退通告(2018年3月17日、発効2019年3月17日)/BARMM発足(2019年3月29日)/COVID初症例(2020年1月30日)・中国本土外初の死亡例(2020年2月1日)/ドゥテルテICC拘束(2025年3月11日)/RAA署名(2024年7月8日)・発効(2025年9月11日)/ACSA署名(2026年1月15日)・発効(2026年8月22日)。
検証記録は本稿末尾の「検証記録(2026-08-26)」節に3本分をまとめて掲載している(「年表・2016〜2026の10年」「年表・日比関係史」からも参照のこと)。同節のうち最新かつ優先されるのは「F. 出典衛生工程(2026-08-26・第5次)」であり、A〜E節と矛盾する場合はF節に従うこと(2026-08-26 再検証で、初稿の「§20」という存在しない節番号への参照も修正)。本稿は Wikipedia を出典として用いない。本文中に残る「Wikipedia」の語は、すべて「かつて依拠していたが除去した」という監査証跡または方針の記述である。